大本営晴気誠参謀の自決
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「サイパンの戦い」の記事における「大本営晴気誠参謀の自決」の解説
大本営陸軍部参謀晴気誠少佐はマリアナ方面作戦の担当参謀であったが、自らが関与したサイパンの水際撃滅作戦が破られアメリカ軍に上陸を許したのを知ると、現地での直接作戦指導を直訴した。東條はこの異例な申し出を承認したうえ、軍刀と激励の辞まで送っている。晴気は硫黄島まで飛行したが、サイパンは敵の制空権下で近づく事ができず、それでもパラシュートでのサイパン降下を懇願したがそれも果たせず、失意の上に断念している。その後サイパンの戦訓を活かした島嶼防衛などの作戦指導に精励していたが、沖縄戦が始まると何度も特攻を志願し、第五航空艦隊司令長官宇垣纏中将に、陸軍士官学校同期生の羽場安信少佐を通じて「国軍の悲境はサイパン失陥によるもので、その責は自分にある」として特攻志願を直談判しようとしたが、このときは羽場から止められている。その後に終戦を迎えたが、8月16日の夜に晴気は羽場に「誰にも頼むわけにはいかぬ、迷惑だろうが見届けてくれ」「男の頼みだ、立ち会ってくれ」と自決の見届けを懇願、羽場は思いとどまるよう説得したが、晴気は翻意することなく、最後は羽場の方が折れて自決の見届けを了承した。2人は8月17日の夜明けに市ヶ谷台の大正天皇御野立所まで行くと、羽場が見届けるなか晴気は軍刀で割腹したのち拳銃で自決した。家族に宛てた遺書は8月10日付けであり、晴気は終戦前に自決を決心していた。その遺書には「サイパンにて散るべかりし命を今日まで永らえてきた予の心中を察せられよ・・・」とサイパンでの作戦指導の責任を最期まで感じていた事が記されていた。
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