大本営の対応
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5月12日午前中、大本営海軍部では第一部(作戦)・第三部(情報)・特務班(通信諜報)関係者があつまり、太平洋方面の情況判断をおこなった。大本営陸軍部では、北方軍作戦参謀安藤尚志陸軍大佐が、参謀次長秦彦三郎陸軍中将・作戦部長綾部橘樹陸軍少将・作戦課長服部卓四郎陸軍大佐達と共に、北部太平洋方面の情況と今後の作戦について検討していた。同日午後、大本営陸海軍部はアメリカ軍アッツ島上陸の報告を受け、アッツ島確保の方針を打ち出した。アッツ島への増援部隊は、第七師団(師団長鯉登行一陸軍中将)から抽出する予定であった。翌13日、陸海軍部はアッツ島に増援部隊をおくりこむことで一致していたが、連合艦隊は微妙な態度であった。5月14日、海軍部はアッツ島への緊急輸送につき「(一)落下傘部隊 (二)潜水艦輸送 (三)駆逐艦輸送」の具体的研究を進めた。午後4時より行われた宮中大本営戦況交換会で、アッツ島守備隊は善戦しているが至急増援部隊をおくる必要があることを再確認した。大型運貨筒の準備もはじまった(水上機母艦日進により5月28日〜29日アッツ島着予定)。日本陸軍の一部では、落下傘部隊と潜水艦によるアムチトカ島奇襲「テ」号作戦の研究がすすめられた。落下傘部隊だけによる奇襲は「ヒ」号作戦と呼称された。 5月16日から17日にかけての大本営陸海軍合同研究会は、徐々に悲観的な空気に包まれていった。旧式戦艦(扶桑、山城)と第五艦隊各艦および落下傘部隊でアムチトカ島を攻略する「テ」号作戦も検討されたが、もはや時機を逸しており成算も疑問視された。 5月18日、大本営は「熱田奪回の可能性薄し」とアッツ島放棄を内定した。当時の参謀次長秦彦三郎中将は「陸海軍共反撃作戦を考えたが、若松只一第三部長から船を潰すから成り立たぬという意見があり、さらに海軍も尻込みしたので反撃中止になった」と回想している。 5月19日、昭和天皇は第五艦隊の出撃を促し、連合艦隊の状況についても下問した。大本営は北海守備隊を如何にして撤退させるかの検討に入った。キスカ島については潜水艦を主力とし駆逐艦と巡洋艦を併用する方向であったが、アッツ島に関しては「熱田湾ハ水深三米程ニテ潜水艦ハ入レナイ、「ボート」一隻モナシ、午前三時以後ハ絶エズ哨戒駆逐艦動キツツアリ(現地の日出0122、日没1652)。ココハ最後ハ玉砕ヤムナシト云フ案モアル。五月末集メ得ル潜水艦ハ全部デ十隻、海軍全部デ四〇隻、ソノ三分之一ガ行動可能」であった。 5月20日、昭和天皇は大本営に臨御した。大本営陸海軍部は、中央協定を結ぶ。アッツ島守備部隊は機会を見て潜水艦により撤退、キスカ島守備部隊は潜水艦・駆逐艦・輸送船による逐次撤退と定められた。大本営陸軍部は20日付大陸命第793号と大陸指第1517号等の発令をもって、中央協定を示達した。大本営海軍部はアッツ島守備隊について、一部だけでも潜水艦で収容する方針を示した。 5月28日午前中、大本営陸海軍部は宮中で戦況交換をおこなう。午後、大本営陸海軍部と連合艦隊参謀があつまり、戦局全般の研究会が開かれた。5月30日、大本営はアッツ島守備隊全滅を発表し、初めて「玉砕」の表現を使った。それまでフロリダ諸島の戦いなどで前線の守備隊が全滅することはあったがそのようなことが実際に国民に知らされたのはアッツ島の戦いが初めてであり、また山本五十六元帥戦死公表の直後だったため(5月21日午後3時、大本営発表)、日本国民に大きな衝撃を与えた。吉川英治も朝日新聞に「悲涙に誓え邁進の心」との談話をよせている。 大本営は「山崎大佐は常に勇猛沈着、難局に対処して1梯1団の増援を望まず」と報道したが、実際には上記のとおり5月16日に補給と増援の要請を行っており、虚偽の発表であった。この件に関し、北海守備隊の峯木司令官は東條英機陸軍大臣や富永恭次陸軍次官から「アッツの山崎大佐は何等救援の請求をしなかったが、司令官(峯木)が執拗に兵力増援をもとめたのはけしからん」として叱られたという。またアッツ島海軍部隊を指揮していた第五艦隊参謀の江本弘少佐も、たびたびアッツ島への緊急輸送や増援の必要性を訴えている。 同年8月29日、朝日新聞は朝刊でアッツ島戦死者の名簿を掲載した。このような名簿が掲載されたのは、最初で最後だった。同年9月29日、アッツ島守備隊将兵約2600名の合同慰霊祭が、札幌市の中島公園で行われた。
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