切腹
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切腹(せっぷく、Seppuku)は、刃物などで自らの腹部を切り裂いて死ぬ自殺の一方法。腹切り(はらきり)・割腹(かっぷく)・屠腹(とふく)・伐腹(ばっぷく)・斬腹(ざんぷく)ともいう。日本では、主に武士などが行った独特の習俗。
注釈
- ^ 井上哲次郎『明治三十四年陸軍中央幼年学校講演記録』より「近頃新渡戸稲造と云ふ人が武士道といふ書物を英文で書き~」
- ^ 津田左右吉「新渡戸の『武士道』が誤った日本像を海外に広め、あるべき概念を混乱させている」
- ^ 徳川家康は下知なき行動(抜駆け)に対し、一族郎党全員の切腹という厳しい軍律を設けていた。ノモンハン事件では、優勢なソ連軍の猛攻を受けた指揮下の部隊を許可なく撤退させ、全滅から救った指揮官に自決が強要されている
- ^ 「或は痛手追ふて腹掻き切り川へ飛入る者もあり」平家物語巻四 橋合戦
- ^ 形としては切腹だが、晒し首にされている
- ^ 江戸城大広間で林鵞峯が「武家諸法度」を読み上げたのち老中酒井雅樂頭忠清によって宣言された。
- ^ 軍記物の記述として、『北条五代記』(『北条盛衰記』本巻二)の三浦義同があり、『土佐物語』巻三にも、「腹十文字にかき切りければ」と記述がある。
- ^ 本当は白の山形模様のついた火事装束は『仮名手本忠臣蔵』などの創作によるもので、史実では「黒い小袖」に「モヽ引、脚半、わらし」であとは思い思いの服装だった。
出典
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- ^ 三田村鳶魚「元禄快挙別録』「赤穂義士遺聞」「横から見た赤穂義士」
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- ^ 大濱徹也『「続・「忠臣蔵」という物語 その誕生と展開について』(2008年1月)
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割腹
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1937年2月17日正午過ぎ、宮城前広場に、1人の男が現れた。「死のう」と書かれたビラを大量に撒いた32歳のその男は、突如持っていた短刀で腹を掻き切り、通行人に発見されて日比谷病院に搬送された。 同じ頃、竣工したばかりの新国会議事堂の前にタクシーが停まった。車から降りた2人の男は二手に別れ、1人は首相官邸に向かった。もう1人は議事堂の周りを歩き始めたが、突如警備の目を盗んで鉄柵を乗り越え、正面玄関に向かって走り出した。男はビラを撒きながら「死のう」と繰り返し絶叫した。気付いた警官や憲兵が駆け寄ってくると、男は立ち止まり、取り出した短刀を己の腹に突き立てた。 首相官邸を目指した男は、目標が見付からず焦りの色を見せたが、やがて意を決してある屋敷に入り、玄関脇で割腹した。傷を負いながらも満足気な顔をしていた男は、この屋敷が外務次官邸であったことを病院で聞かされると、無念の表情を浮かべた。 また12時45分頃、警視庁正面玄関ホール(当時の庁舎は霞ヶ関にあった)に現れた22歳の党員が、その場に正座して割腹を図っているところを特別警備隊の巡査に取り押さえられた。2時20分頃には、27歳の党員が内務省3階の便所で腹を切り、発見した守衛によって医務室に運ばれた。 5名の男は、こうして都内5ヶ所でそれぞれ腹を切った。ただし、上述の通り彼らは江川に従い、刃先だけしか出ないよう細工を施した短刀で切腹したため、いずれも致命傷は負わなかった。新聞は、再び大きな騒ぎを起こした「死のう団」を好奇の目で、あるいは気味悪げに報じた。 同日21時頃、2人の女が歌舞伎座4階の立見席から「死のう」と叫びながら大量のビラを撒いた。銀座の街頭でも女が、また品川駅に向かう電車の中でも男が、それぞれビラを撒いた。 警視庁は、直ちに日蓮会館の捜索に乗り出した。留守番役をしていた者やビラを撒いた者が身柄を拘束された。 3月3日、代議士の久山に付き添われて、江川が警視庁に出頭。「申し訳ございません」と頭を下げた江川に対し、特高部長は正業に勤しむよう諭して釈放した。
※この「割腹」の解説は、「死のう団事件」の解説の一部です。
「割腹」を含む「死のう団事件」の記事については、「死のう団事件」の概要を参照ください。
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