地下陣地の構築と反対論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 17:00 UTC 版)
「硫黄島の戦い」の記事における「地下陣地の構築と反対論」の解説
日本軍は対上陸部隊への戦術としてタラワの戦いなど、上陸部隊の弱点である海上もしくは水際付近にいるときに戦力を集中して叩くという「水際配置・水際撃滅主義」を採用していた。タラワ島ではこの方針によってアメリカ軍の上陸部隊の30%を死傷させる大打撃を与えたが、サイパンの戦いにおいては、想定以上の激しい艦砲射撃に加え、日本軍の陣地構築が不十分であったことから、水際陣地の大部分が撃破されてしまい、上陸部隊の損害は10%と相応の打撃を与えたものの、日本軍の損害も大きく、短期間のうちに戦力が消耗してしまうこととなった。このサイパン島の敗戦は日本軍に大きな衝撃を与えて、のちの島嶼防衛の方針を大きく変更させた。その後に作成されたのが1944年8月19日に参謀総長名で示達された「島嶼守備要領」であり、この要領によって日本軍の対上陸防衛は、従来の「水際配置・水際撃滅主義」から、海岸線から後退した要地に堅固な陣地を構築し、上陸軍を引き込んでから叩くという「後退配備・沿岸撃滅主義」へと大きく変更されることとなった。 硫黄島においても、栗林が着任前には、前軍司令官の小畑の指示もあって、従来の「水際配置・水際撃滅主義」による陣地構築が行われていたが、栗林は6月8日に硫黄島に着任するとくまなく島内を見て回り、硫黄島の地形的特質を緻密に検討して、サイパン島の陥落前の6月17日には、従来の「水際配置・水際撃滅主義」を捨て、主陣地を水際から後退させて「縦深陣地」を構築し、上陸部隊を一旦上陸させたのちに、摺鉢山と北部元山地区に構築する複廓陣地で挟撃して大打撃を与えるといった攻撃持久両用作戦をとることとし、「師団長注意事項」として全軍に示達された。この栗林の方針転換は、サイパン島の陥落によって方針を転換した大本営に先んじるものであった。なお、ペリリューの戦いにおいて、アメリカ軍を持久戦術で苦しめた中川州男陸軍大佐も、1944年7月20日に大本営が戦訓特報第28号によって通知したサイパン島の戦訓を活かして、栗林とほぼ同時期に「縦深陣地」を構築し、圧倒的優勢なアメリカ軍を2か月以上も足止めし多大な出血を強いている。 栗林は、アメリカ軍を内陸部に誘い込んでの持久戦や遊撃戦(ゲリラ)を新戦闘方針とし、6月20日にはそのための陣地構築を、「伊支隊」に命じた。しかし、この栗林の方針転換に対しては、飛行場の確保を主目的とする南方諸島海軍航空隊司令の井上左馬二海軍大佐らと、従来の「水際配置・水際撃滅主義」に拘る一部の陸軍幕僚から反対意見が出た。特に第109師団の参謀長堀静一大佐は陸軍士官学校の教官をしていたこともあり、80年にも渡って日本軍が研究してきた「水際配置・水際撃滅主義」に固執し、混成第2旅団長の大須賀も海軍や堀の意見に賛同した。栗林は頑迷な海軍と一部の陸軍士官に対して失望し「士官はバカ者か、こりごりの奴ばかりだ、これではアメリカといくさはできない」と副官にぼやいていたが、8月中旬の陸海軍による協議において栗林が妥協し、一部の水際・飛行場陣地構築が決定された。この妥協によって栗林の作戦計画が不徹底となったという指摘に対して、第109師団参謀の堀江芳孝少佐は「栗林中将自身は持久戦(後方・地下陣地構築)方針は一切変更しておらず、海軍が資材を提供してくれるなら、一部陸軍兵力でこれを有効活用できる」「水際陣地は敵の艦砲射撃を吸引する偽陣地的に使用できる」などと栗林が計算したうえでの妥協であったと証言している。海軍側は12,000トンものセメントの提供を提案したが、結局送られてきたセメントは3,000トンに止まった。 海軍には妥協した栗林であったが、軍司令官に公然と反論した堀や大須賀に対しては、軍内の統制を保つためにも看過することなく、12月には大須賀を更迭し、代わりに陸軍士官学校同期で“歩兵戦の神”の異名をもつ千田貞季少将を呼び、また堀も更迭して高石正大佐を参謀長に昇格させた。他にも栗林は自分の方針に従わない参謀や部隊指揮官らを更迭し、その人数は18人にもなった。この強引な人事もあって硫黄島の陸軍内の統制は保たれることとなった。 栗林中将は後方陣地および、全島の施設を地下で結ぶ全長18kmの坑道構築を計画(設計のために本土から鉱山技師が派遣された)、兵員に対して時間の7割を訓練、3割を工事に充てるよう指示した。硫黄島の火山岩は非常に軟らかかったため十字鍬や円匙などの手工具で掘ることができた。また、司令部・本部附のいわゆる事務職などを含む全将兵に対して陣地構築を命令、工事の遅れを無くすため上官巡視時でも作業中は一切の敬礼を止めるようにするなど指示は合理性を徹底していた。そのほか、最高指揮官(栗林中将)自ら島内各地を巡視し21,000名の全将兵と顔を合わせ、また歩兵第145連隊の軍旗(旭日旗を意匠とする連隊旗)を兵団司令部や連隊本部内ではなく、工事作業場に安置させるなどし将兵のモチベーション維持や軍紀の厳正化にも邁進した。しかしながら主に手作業による地下工事は困難の連続であった。激しい肉体労働に加えて、火山である硫黄島の地下では、防毒マスクを着用せざるを得ない硫黄ガスや、30℃から50℃の地熱にさらされることから、連続した作業は5分間しか続けられなかった。またアメリカ軍の空襲や艦砲射撃による死傷者が出ても、補充や治療は困難であった。「汗の一滴は血の一滴」を合言葉に作業が続けられたが、病死者、脱走者、自殺者が続出した。 坑道は深い所では地下12mから20m以上(硫黄島で遺骨収用の際、実際に確認されている。)、長さは摺鉢山の北斜面だけでも数kmに上った。地下室の大きさは、少人数用の小洞穴から、300人から400人を収容可能な複数の部屋を備えたものまで多種多様であった。出入口は近くで爆発する砲弾や爆弾の影響を最小限にするための精巧な構造を持ち、兵力がどこか1つの穴に閉じ込められるのを防ぐために複数の出入口と相互の連絡通路を備えていた。また、地下室の大部分に硫黄ガスが発生したため、換気には細心の注意が払われた。 栗林中将は島北部の北集落から約500m北東の地点に兵団司令部を設置した。司令部は地下20mにあり、坑道によって接続された各種の施設からなっていた。島で2番目に高い屏風山には無線所と気象観測所が設置された。そこからすぐ南東の高台上に、高射機関砲など一部を除く硫黄島の全火砲を指揮する混成第2旅団砲兵団(団長・街道長作陸軍大佐)の本部が置かれた。その他の各拠点にも地下陣地が構築された。地下陣地の中で最も完成度が高かったのが北集落の南に作られた主通信所であった。長さ50m、幅20mの部屋を軸にした施設で、壁と天井の構造は栗林中将の司令部のものとほぼ同じであり、地下20mの坑道がここにつながっていた。摺鉢山の海岸近くのトーチカは鉄筋コンクリートで造られ、壁の厚さは1.2mもあった。 硫黄島の第一防衛線は、相互に支援可能な何重にも配備された陣地で構成され、北西の海岸から元山飛行場を通り南東方向の南村へ延びていた。至る所にトーチカが設置され、さらに西竹一中佐の戦車第26連隊がこの地区を強化していた。第二防衛線は、硫黄島の最北端である北ノ鼻の南数百mから元山集落を通り東海岸へ至る線とされた。第二線の防御施設は第一線より少なかったが、日本軍は自然の洞穴や地形の特徴を最大限に利用した。摺鉢山は海岸砲およびトーチカからなる半ば独立した防衛区へと組織された。戦車が接近しうる経路には全て対戦車壕が掘削された。摺鉢山北側の地峡部は、南半分は摺鉢山の、北半分は島北部の火砲群が照準に収めていた。 1944年末には、島に豊富にあった黒い火山灰をセメントと混ぜることでより高品質のコンクリートができることが分かり、硫黄島の陣地構築はさらに加速した。飛行場の付近の海軍陸戦隊陣地では、予備学生出身少尉の発案で、放棄された一式陸攻を地中に埋めて地下待避所とした。アメリカ軍の潜水艦と航空機による妨害によって建設資材が思うように届かず、また上述の通り海軍側の強要により到着した資材および構築兵力を水際・飛行場陣地構築に割かざるを得なかったために、結局坑道はその後に追加された全長28kmの計画のうち17km程度しか完成せず、司令部と摺鉢山を結ぶ坑道も、残りわずかなところで未完成のままアメリカ軍を迎え撃つことになったが、戦闘が始まると地下陣地は所期の役割を十二分に果たすことになる。 のちに栗林が築き上げたこの防御陣地に多大な出血を強いられることとなった、硫黄島上陸部隊の指揮官である第56任務部隊の司令官ホーランド・スミス海兵中将は、防御陣地と栗林による部隊の配置を以下のように評した。 栗林の地上配備は私(スミス)が第一次世界大戦中にフランスで見たいかなる配備より遥かに優れていた。また観戦者の話によれば、第二次世界大戦におけるドイツ国防軍の配備をも凌いでいた。
※この「地下陣地の構築と反対論」の解説は、「硫黄島の戦い」の解説の一部です。
「地下陣地の構築と反対論」を含む「硫黄島の戦い」の記事については、「硫黄島の戦い」の概要を参照ください。
- 地下陣地の構築と反対論のページへのリンク