グアム戦の影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/22 16:39 UTC 版)
グアムの占領を成し遂げたアメリカ軍は、皮肉にも日本軍が設営し、ほとんど戦力とはならなかった飛行場を整備し、サイパン島等とともに日本本土への戦略爆撃の拠点とした。グアムやサイパンより飛び立ったB-29は、日本の多くの都市を灰燼に帰し、日本の継戦能力を奪っていった。この飛行場は、後にグアム国際空港となり、今日においてもグアムの空の玄関となっている。また、グアムはアメリカ陸海軍の前線基地となり、この後のフィリピン・硫黄島・沖縄攻略で重要な役割を果たした。以上のようにグアム島を含むマリアナ諸島の喪失が、大戦の行方を決定づけた。 終戦後初の内閣総理大臣となる東久邇宮稔彦王は、この戦いの敗北で日本の敗北を察したという。 一方日本軍の方も、グアム戦などマリアナ諸島の戦いでのアメリカ軍上陸前に今までにない激しく効果的な艦砲射撃を浴び、陣地や兵員に甚大な損害を受けたこと、また、上陸後も水際撃滅策を軸とし堅牢な陣地構築を十分に行わず、突撃や夜襲を多用して早期に多くの戦力を失ってしまったといった教訓を大本営陸軍部の編纂した「戦訓特報」により全軍に通知した。この通知内容も十分とは言えなかったが、その戦訓を更に詳細に検証し、ペリリューの戦い・硫黄島の戦い・沖縄戦では徹底した陣地構築を行い、無用な突撃も禁止したことにより、アメリカ軍を大苦戦させている。 グアムでの戦いが終結した後、横井庄一伍長ら数名の日本兵が終戦を知らずにジャングルに潜伏し続けていた。1人生き残った横井伍長は1972年(昭和47年)にグアム島住民に発見され、保護された後に日本へ帰国している。
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