グアム線敷設と第一次世界大戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/07 13:22 UTC 版)
「沖縄丸」の記事における「グアム線敷設と第一次世界大戦」の解説
日露戦争後、1906年(明治39年)に小笠原丸、1923年(大正12年)には南洋丸と国産の海底ケーブル敷設船が建造されたが、沖縄丸も引き続き海底ケーブル敷設の第一線で活躍を続けた。1906年の日米間の太平洋横断ケーブル事業では、新たに敷設する東京=グアム間の電信線のうち、東京=父島間の工事を担当した。 第一次世界大戦に日本が参戦すると、沖縄丸は再び軍用通信線の敷設に動員された。青島の戦いに際しては、防護巡洋艦新高や笠置の援護の下、佐世保=上海間の海底電信線を敷設した。さらに、1916年(大正5年)には日本軍が占領したドイツ領南洋諸島への通信線整備も担当し、上海=ヤップ島間にあった海底電信線を那覇=ヤップ島間に付け替える工事を行っている。 1927年(昭和2年)には、日本海軍が8年ぶりに行った観艦式に海軍艦船以外で唯一参加する栄誉を再び経験した。 1937年(昭和12年)、沖縄丸が長崎=上海間の海底電信線修理のため上海港に碇泊中、折悪しく8月13日に第二次上海事変が勃発した。8月14日、沖縄丸は中国軍機による空襲を受け、爆弾1発が左舷への至近弾となって破片で水夫1人が死亡、負傷者も複数生じた。損傷した沖縄丸は工事を打ち切り、南洋丸と任務交代して長崎へと帰還した。
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