グアヤキル会談
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「ホセ・デ・サン=マルティン」の記事における「グアヤキル会談」の解説
「ボリビア独立戦争」も参照 1822年7月26日、グアヤキル(現エクアドル南部にある港湾都市)でシモン・ボリバルとのグアヤキル会談(英語版)が開催された。会談の内容は資料が残っておらず、詳細は不明であるがグアヤキル地方の帰属問題とペルーのスペインからの独立の仕方であったと言われている。ただ、この会談で共和主義者のボリーバルと君主主義者のサン=マルティンの間に大きな隔たりがあることが確認されたことだけは事実である。 それでもサン・マルティンはボリーバルに自らを部下にして欲しいと申し出たが、ボリーバルはもはやペルーで失敗しつつあるサン・マルティンを見限ってこの申し出を断り、サン・マルティンはこの会談に失望し引退を決意する。「ボリバルは我々の期待した人物ではない」と告白したとも言われ、ペルー議会に護国官の辞任を申し出る。オイヒンスへの手紙には「暴君といわれ、国民から王、皇帝、さらには悪魔にさえなりたがっているといわれるのは耐えがたい」と告白している。
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グアヤキル会談
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このころ、アルゼンチンのホセ・デ・サン・マルティン将軍は、チリの独立指導者ベルナルド・オイヒンスや、スコットランドの元英王立海軍軍人トマス・コクランらの力を借りて、アルゼンチンのメンドーサからアンデス山脈越え(英語版)を持ってチリを解放し、そこから海路ペルーまで進み、初代ペルー護国官となって南から解放戦争を進めていた。しかし、このペルー共和国の支配権は海岸部に限定され、アルト・ペルー(現ボリビア)に拠点を置くスペイン軍とペルー副王のラセルナは抵抗を続けてサン・マルティンを翻弄し、ペルー第一共和国の崩壊が迫っていた。 このため、サン・マルティンは大コロンビア軍に支援を求めようとした。ボリバルはこの思わぬもう一人の解放者に出くわしたことを喜び、解放されたグアヤキルで1822年7月26日にグアヤキル会談(スペイン語版、英語版)を行った。会談の内容は資料が残っておらず詳細は不明であるが、グアヤキル地方の帰属問題とペルーのスペインからの独立の仕方であったといわれている。ボリバルが共和制を望んだのとは対照的に、サン・マルティンはヨーロッパから王を導入して立憲君主制を導入することを望んでいたが、ナポレオンの戴冠によりフランス革命が大失敗したと考えていたボリバルにとって、これは到底受け入れることのできない条件だった。結局、ボリバル軍に加わりたいというサン・マルティンの申し出もボリバルが断ると、サン・マルティンはアルゼンチンに帰国してしまった。この会談ののち、サン・マルティンが軍を率いることは二度となく、1824年にはヨーロッパへと移住してしまった。このため、山岳部に勢力を張るスペイン軍との対決は、以後ボリバルの手にゆだねられることとなった。
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