ペルー戦線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 06:08 UTC 版)
「アントニオ・ホセ・デ・スクレ」の記事における「ペルー戦線」の解説
ペルーはサン・マルティンの援けによって独立を果たしたが、その支配は海岸部にとどまっていた。グアヤキル会談(スペイン語版、英語版)の後にサン・マルティンが引退すると、新生ペルーは軍事的劣勢を補うためコロンビアに援兵を求めた。1823年にスクレは先遣隊6000を率いてペルーに向かった。 スクレはまずリマから政府を疎開させ、この方面の防衛体制を整えた。ペルー政府はスクレをペルー軍司令官に任命したが、スクレはペルー政府の内紛を見てその地位を返上し、ペルー南部で作戦中のサンタクルスの救援に向かった。兵力に勝るスペイン軍はサンタクルスを撃破したが、スクレを捕捉することはできなかった。スクレは敗兵を収容しようとしたが、サンタ・クルスの方が合流を望まなかった。10月にこの戦役は独立軍の敗勢に終わった。結果的に、スクレ軍は兵力を失わずリマに帰り、サンタクルス軍は兵力の大部分を失った。それより少し前、9月にはボリバルがペルーに到着し、ペルー軍とコロンビア軍の指揮権をおさめた。 ボリバルはスクレを全軍の司令官に任じたが、ボリバルがいる場所でスクレの実際の役割は参謀長であった。1824年夏にボリバルは連合軍を率いて攻勢をかけた。8月6日にボリバルはフニンの戦い(英語版)で騎兵戦を行い、大勝を得た。この戦いではスペイン軍が早々に退却してしまい、歩兵を指揮するスクレの出る幕はなかった。 ボリバルはこれで戦線が一応安定したと考え、主力をスクレに預けて自らは海岸地方を掃討することにした。しかしこの間、ホセ・デ・ラセルナ副王は、他方面から部隊を呼び寄せて大兵力を結集し、スクレ軍に対して攻勢に出た。スクレは交戦しようとせず、1か月もの間ひたすら退却を続けた。ラセルナはスクレの退路を遮断する進路をとった。その目的は達したが、遠回りで強行軍したため、追撃したスペイン軍の兵力の消耗のほうが大きかった。追い詰められたスクレはアヤクチョの盆地に布陣してスペイン軍を迎えた。12月9日のアヤクーチョの戦い(英語版)では、スクレが率いる少数の連合軍が決定的勝利をおさめた。スペイン軍は敵の退路を塞ぐために回り込んだはずだったが、敗れてみるとその機動のせいで自らの退路がなくなっており、副王以下の将兵がみな降伏を余儀なくされた。スペイン領南アメリカ独立はこの一戦をもって最終的に決まった。 ボリバルは12月26日にこの戦功をたたえてスクレを大元帥に任命した。翌年2月12日、ペルー政府がスクレを「アヤクチョ大元帥」に任命した。
※この「ペルー戦線」の解説は、「アントニオ・ホセ・デ・スクレ」の解説の一部です。
「ペルー戦線」を含む「アントニオ・ホセ・デ・スクレ」の記事については、「アントニオ・ホセ・デ・スクレ」の概要を参照ください。
- ペルー戦線のページへのリンク