ペルー国内の排日気運の醸成と契約移民の廃止
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 13:54 UTC 版)
「リマ排日暴動事件」の記事における「ペルー国内の排日気運の醸成と契約移民の廃止」の解説
1920年前後からペルーでは、排日気運が醸成されていった。それ以前よりペルーでは先住民に対する蔑視は甚だしかった。従ってインディオと同じような皮膚の色の日本人に対する排斥もペルーが南米で最も厳しかったと言われている。排日記事は年中新聞等を賑わすようになっていった。例えば次のとおりである。 体躯矮小、容貌粗野かつ応対の虚偽にして利己的な日本人 — ラ・クロニカ紙社説(1916年) 日本人と婚約するを欲するに至っては、国民の恥辱も実にその極に達せるものと云うべし — ティエムポ紙上の投書(1917年) 1919年にペルー政府は白人移民を奨励する大統領令を出し、白人優先主義を鮮明にした。これは、日系移民の都市部への集中があったと推察される。1922年には、「東洋人入国禁止法案」が議会に提出された。 1923年にペルー政府と日本政府の間で合意の上に契約移民が廃止になった。廃止の理由として、日本政府は、移民者の低賃金と渡航費の持ち出しが移民を利さないとし、ペルー政府は日本移民が社会問題化していることを挙げた。
※この「ペルー国内の排日気運の醸成と契約移民の廃止」の解説は、「リマ排日暴動事件」の解説の一部です。
「ペルー国内の排日気運の醸成と契約移民の廃止」を含む「リマ排日暴動事件」の記事については、「リマ排日暴動事件」の概要を参照ください。
- ペルー国内の排日気運の醸成と契約移民の廃止のページへのリンク