ペルー帰国 - 大統領2期目
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 04:38 UTC 版)
「アラン・ガルシア」の記事における「ペルー帰国 - 大統領2期目」の解説
その後も亡命生活を強いられていたガルシアだったが、2000年にフジモリが大統領職を罷免されたことを受け、翌2001年には罪を許されて帰国する。そして、同年の大統領選挙に立候補、1回目の投票で25%の得票を得て決選投票に進むもアレハンドロ・トレドの前に敗れた。 2006年、再び大統領選挙に立候補する。1回目の投票では24%の得票を得て、僅差でルルデス・フローレスをかわして決選投票に進んだ。決選投票では1回目の投票で首位だったオジャンタ・ウマラを逆転し、2度目の大統領就任を果たす。大統領1期目ではAPRA党員を内閣に多数起用して反発を招いたため、2期目ではその反省にたち、16人の閣僚のうちAPRA党員を6人に留めた。 ペルーは死刑廃止国であるが、ガルシアは、7歳未満の子供に性的暴行を加え殺害した犯罪者に対して死刑適用を認めることを選挙公約に掲げた。2006年9月21日に議会へ法案を提出しており、現在は議会で審議が行なわれている。この背景には、広島小1女児殺害事件の容疑者として逮捕された日系ペルー人が、母国において同様の性犯罪を繰り返していたにも関わらず収監を逃れていたことに対する批判など、年少者に対する性犯罪の厳罰化を求める世論が同国で高まっていることが挙げられる(世論調査では、死刑適用に8割が賛成する結果も出ている)。 2006年10月にはアメリカを訪問してジョージ・W・ブッシュと会談し、「アンデス原理主義」として政策の対立するベネスエラとボリビアを非難した。 2008年3月16日と2009年11月10日の2度来日した。 2011年6月15日、第2次大戦中に日本人移民数千人を無作為に逮捕して米国の強制収容所に送り込んだ事実について、「1941年に子どもを含めた日系人数千人が、いわれもなく逮捕され、不法に拘束された。無法者たちはあなたがたの家や会社を略奪し、財産をわが物にした。本日、ペルーの大統領として、日系人の人権と尊厳を踏みにじったゆゆしき事実について謝罪する」と正式に謝罪した。 再選は憲法で禁じられているため、2011年の任期満了をもって退任した。同年の大統領選挙では、APRAとしてクチンスキー元首相を推挙したが選挙では3位に終わった。 2014年にブラジル建設最大手オデブレヒト社が南米の有力指導者や政党に賄賂を送った疑惑(オペレーション・カー・ウォッシュ)が浮上し、その捜査の中でガルシアも賄賂の送り先として疑われることとなった。2期目の大統領在任中にリマ市内の電車工事をめぐって裏金を受け取った疑惑が持ち上がり、2018年11月17日に18カ月間の出国禁止命令が裁判所より下り、その日の夜にリマ市内のウルグアイ大使館に亡命を申請したが、認められなかった。2019年4月17日、逮捕直前に拳銃で頭を撃ち、搬送先の病院で死亡した。
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