アンデス山脈越え
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/20 22:29 UTC 版)
「ホセ・デ・サン=マルティン」の記事における「アンデス山脈越え」の解説
「チリ独立戦争(英語版)」も参照 ラ・プラタ連合の真の独立にはアルト・ペルーの解放が必要不可欠だと考えていたのは誰もが同じだったが、サン・マルティンはここでチリ経由のアンデス山脈越え(英語版)を持ってまずチリとペルーを解放し、然る後アルト・ペルーを解放しようという壮大な作戦を練り始めた。1816年、ラ・プラタ連合州はトゥクマンの議会(英語版)を開いて独立を宣言。サン・マルティンは親書を送って独立を支持する一方、メンドーサにてマヌエル・ベルグラーノ将軍から指揮権を引きついだ 北部軍(英語版)(ちなみに、この時期の北部軍の半分以上がアフリカ系アルゼンチン人だった)の鍛錬を着々と進めた。さらにサン・マルティンは、ここでアルゼンチンから精鋭部隊(アンデス軍(英語版))をチリに派遣、その後チリの独立政府を樹立しそこを拠点としてペルーに軍隊を派遣するという計画を立案する。1817年初頭、亡命チリ人の独立指導者ベルナルド・オイヒンスらと共にメンドーサから出撃した北部軍は、スペイン軍の油断をついてアンデス山脈越え(英語版)を行い、チャカブコの戦い(英語版)に勝利。1月25日にサンティアゴに入城を果たす。チリの議会はサン・マルティンを執政官に選出したが、サン・マルティンはこの申し出を断り、この戦いに協力したオイヒンスをチリの元首として指名した。その後、3月16日en:Second Battle of Cancha Rayada、4月5日マイプーの戦い(英語版)で再びスペイン軍を破ると、チリの最終的な独立が確定した(チリ独立戦争(英語版)、チリ独立宣言(英語版))。
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