独立派の進軍
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「イスパノアメリカ独立戦争」の記事における「独立派の進軍」の解説
詳細は「アンデス山脈越え(英語版)」および「シモン・ボリバルのヌエバ・グラナダ解放戦役(英語版)」を参照 この時期の終わりが近づくにつれ、独立派の軍勢が進軍してきた。まずコーノ・スールでは半島戦争に従軍した経験豊富なホセ・デ・サン=マルティンがクヨ県(英語版)の知事になった。彼はこの地位を利用して、1814年よりチリ侵攻のための軍勢を編成しはじめた。これは第一次アルト・ペルー攻略(スペイン語版、英語版)、第二次アルト・ペルー攻略(スペイン語版)、第三次アルト・ペルー攻略(スペイン語版)と連敗した後の方針転換であった。サン=マルティンの軍勢はアンデス軍(英語版)の中核になり、特に1816年にフアン・マルティン・デ・プエイレドン(英語版)がリオ・デ・ラ・プラタ連合州(英語版)の最高執政官(英語版)に就任した以降は政治的にも物質的にも不可欠な支援を受けた。1817年1月にようやくチリ進軍の準備が完了すると、サン=マルティンはベルナルド・オイギンス将軍(後にチリ最高執政官(英語版))とともにリオ・デ・ラ・プラタ議会からのチリ進軍禁止令を無視して、アンデス山脈を越えた。この行動は情勢を覆し、2月10日にはチリ北部と中部がサン=マルティンの支配下に置かれ、1年後にはゲーラ・ア・ムエルテ(英語版)と呼ばれる戦役を経て南部も支配された。元イギリス海軍士官トマス・コクラン率いる艦隊の支援もあり、チリは王党派の支配から解放され、同年に独立を宣言した。サン=マルティンらは2年をかけてペルー侵攻を計画、1820年に実行した。 南米北部ではカラカスなどベネズエラの都市部を奪取する戦役が数度失敗した後、シモン・ボリバルが1819年にサン=マルティンのそれと似たような計画を立て、アンデス山脈を越えてヌエバ・グラナダを王党派から解放しようとした。サン=マルティンと同じく、ボリバルも侵攻のための軍勢を編成、同地域から逃亡してきた独立派と連携したが、ベネズエラ議会(英語版)の許可を得られずにいた。しかし、ボリバルはサン=マルティンと違い、訓練の整った兵隊を有さず、ヤネロ(英語版)、フランシスコ・デ・パウラ・サンタンデル率いる逃亡ヌエバ・グラナダ人、そしてイギリス軍団(英語版)で構成される混成軍しかなかった。1819年6月から7月にかけて、ボリバルは雨季を掩護にして、浸水した平原を越え、寒いアンデス山脈の山道を通った。これにより、ボリバルはイギリス軍団の4分の1を失い、標高4,000メートル近くの山道を行軍する準備の整っていないヤネロの多くも失ったが、この賭けは成功した。ボリバルは8月にはボヤカの戦いでボゴタとその国庫を支配下に置き、モリーヨの厳しい再占領に不満を持っていたヌエバ・グラナダ人の多くからの支持も得た。いずれにしても、サンタンデルは「ゲーラ・ア・ムエルテ」継続の必要性を信じて、王党派士官38人を降伏したにもかかわらず処刑した。ボリバルはヌエバ・グラナダの資源をもってベネズエラの愛国派の指導者になり、両地域を統合して大コロンビアを建国した。
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