独立派の進軍とは? わかりやすく解説

独立派の進軍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 15:29 UTC 版)

イスパノアメリカ独立戦争」の記事における「独立派の進軍」の解説

詳細は「アンデス山脈越え英語版)」および「シモン・ボリバルヌエバ・グラナダ解放戦役英語版)」を参照 この時期終わり近づくにつれ、独立派軍勢進軍してきた。まずコーノ・スールでは半島戦争従軍した経験豊富ホセ・デ・サン=マルティンがクヨ県(英語版)の知事になった。彼はこの地位利用して1814年よりチリ侵攻のための軍勢編成しはじめた。これは第一次アルト・ペルー攻略スペイン語版英語版)、第二次アルト・ペルー攻略スペイン語版)、第三次アルト・ペルー攻略スペイン語版)と連敗した後の方針転換であったサン=マルティン軍勢アンデス軍(英語版)の中核になり、特に1816年にフアン・マルティン・デ・プエイレドン(英語版)がリオ・デ・ラ・プラタ連合州英語版)の最高執政官英語版)に就任した以降政治的に物質的に不可欠な支援受けた1817年1月にようやくチリ進軍準備完了すると、サン=マルティンベルナルド・オイギンス将軍(後にチリ最高執政官英語版))とともにリオ・デ・ラ・プラタ議会からのチリ進軍禁止令を無視してアンデス山脈越えた。この行動情勢覆し2月10日にはチリ北部中部サン=マルティン支配下置かれ1年後にはゲーラ・ア・ムエルテ(英語版)と呼ばれる戦役経て南部支配された。元イギリス海軍士官トマス・コクラン率い艦隊支援もあり、チリ王党派支配から解放され同年独立宣言したサン=マルティンらは2年をかけてペルー侵攻計画1820年実行した南米北部ではカラカスなどベネズエラ都市部奪取する戦役数度失敗した後、シモン・ボリバル1819年サン=マルティンのそれと似たような計画立てアンデス山脈越えてヌエバ・グラナダ王党派から解放しようとしたサン=マルティン同じくボリバル侵攻のための軍勢編成同地域から逃亡してきた独立派連携したが、ベネズエラ議会英語版)の許可得られずにいた。しかし、ボリバルサン=マルティン違い訓練整った兵隊を有さず、ヤネロ(英語版)、フランシスコ・デ・パウラ・サンタンデル率い逃亡ヌエバ・グラナダ人、そしてイギリス軍団(英語版)で構成される混成軍しかなかった。1819年6月から7月にかけて、ボリバル雨季掩護にして、浸水した平原越え、寒いアンデス山脈山道通った。これにより、ボリバルイギリス軍団の4分の1失い標高4,000メートル近く山道行軍する準備整っていないヤネロの多く失ったが、この賭け成功したボリバル8月にはボヤカの戦いボゴタとその国庫支配下に置き、モリーヨの厳しい再占領に不満を持っていたヌエバ・グラナダ人の多くからの支持得たいずれにしてもサンタンデルは「ゲーラ・ア・ムエルテ」継続必要性信じて王党派士官38人を降伏したにもかかわらず処刑したボリバルヌエバ・グラナダ資源をもってベネズエラ愛国派の指導者になり、両地域統合して大コロンビア建国した。

※この「独立派の進軍」の解説は、「イスパノアメリカ独立戦争」の解説の一部です。
「独立派の進軍」を含む「イスパノアメリカ独立戦争」の記事については、「イスパノアメリカ独立戦争」の概要を参照ください。

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