アンデス山脈戦役(1814-1818)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/07 09:53 UTC 版)
「アルゼンチン独立戦争」の記事における「アンデス山脈戦役(1814-1818)」の解説
ホセ・デ・サン・マルティン将軍は1814年にアルト・ペルーへの新たな攻撃を計画し北方面軍の指揮官に就いたものの、更なる敗北を予想し間もなく辞任した。マルティンはキトとリマの王党派を打倒するためにはまずチリを攻撃すべきだとするトーマス・マイトランド(英語版)の著作を受け、チリからペルー副王領を攻める戦略を考案した。 サン・マルティンはクヨ州知事になり、チリ戦役への準備を始めた。メンドーサに到着後、連合州市民とチリからの亡命者から成るグラナデーロス部隊をアンデス方面軍に編入した。 1817年前半、サン・マルティンはアンデス越山(英語版)を組織し、同年2月17日チャカブコの戦い(英語版)で決定的勝利を納め、サンティアゴ・デ・チリを占領した。サン・マルティンは、当初の目的であるリマ占領に集中するため、チリ知事となる提案を拒み、代わりにベルナルド・オイギンスを知事にたてた。12月には、チリの独立に関する国民投票が行われた。 しかし、王党派はマプチェ族と同盟し、チリ南部で抵抗運動を行った。連合州軍大佐フアン・グレゴリオ・デ・ラス・エラス(英語版)が4月4日にコンセプシオンを占領したものの、王党派はタルカウアノに南下し抵抗を続けた。1818年の初めにはマリアノ・オソリオ(英語版)率いるペルー副王領からの増援が到着した。そこでサン・マルティンは防衛が不可能であると見たコンセプションからの撤退を命じ、焦土作戦を実行した。チャカブコの戦いの一年後である同年2月に、チリは独立を果たした。 同年4月、オソリオの部隊はラプラタ連合州・チリ共和国連合軍に奇襲し(英語版)、連合軍は多くの犠牲者を出し、サンティアゴに撤退した。また混乱の中、チリ最高長官のオーヒギンスが戦死したという誤解が生じ、連合軍にパニックを生じさせた。カンチャ・ラヤーダの戦いの後、オーヒギンスはマイプ平原での会議において軍の指揮権を全てサン・マルティンに渡した。そして、同年5月、サン・マルティンはマイプの戦い(英語版)でオソリオに対し決定的勝利を納め、王党派軍はコンセプションに撤退し、その後サンティアゴへの攻撃を行うことはなかった。 その後の対ペルー攻撃はチリの名によって行われたため。チリ戦役がアルゼンチン独立戦争の終結させたとされている。ただ、1825年のアヤクチョの戦い(英語版)により王党派が壊滅するまで、北部国境での防衛戦は続いた。
※この「アンデス山脈戦役(1814-1818)」の解説は、「アルゼンチン独立戦争」の解説の一部です。
「アンデス山脈戦役(1814-1818)」を含む「アルゼンチン独立戦争」の記事については、「アルゼンチン独立戦争」の概要を参照ください。
- アンデス山脈戦役のページへのリンク