独立と保守支配
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 16:57 UTC 版)
「近代における世界の一体化#ラテンアメリカ諸国の独立」も参照 16世紀以来チリはスペインの植民地であったが、ナポレオン戦争によるヨーロッパの混乱と、フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトが兄のジョゼフ・ボナパルトをスペイン王ホセ1世に据えたことに対する、スペインでの民衆蜂起が発端となったスペイン独立戦争が勃発すると、インディアス植民地は偽王への忠誠を拒否した。ラパスやキト、サンタフェ・デ・ボゴタといった各地でクリオーリョの間に独立運動の気運が高まる中、チリでも1810年にブエノスアイレスで勃発した五月革命 の影響により、クリオーヨたちは「開かれた市会」(カピルド・アピエルト)の開催を要求し、同年9月18日に開かれ、政治委員会の設立が決議された(パトリア・ビエハ(英語版))。1811年2月21日の法令で、チリの港を国際貿易に解放することが定められ、スペイン領アメリカの主要都市に置かれていた当時組織アウディアンシアの廃止が決定された。フアン・マルティネス・デ・ロサス(英語版)がサンティアゴ・デ・チレに自治政府を創設し、国民議会を招集して奴隷の輸入禁止、奴隷の子の自由を保障する決議などを行った。さらに独立を志向する自由主義者たちは、共和国建設を計画し始めていた。 ホセ・ミゲル・カレーラ(英語版)の指導する自治政府は、ペルー副王アバスカル(英語版)が派遣した王党軍とのランカウアの戦い(英語版)(1814年)で敗北したことによって崩壊し、再びスペインの支配を受けた(レコンキスタ)。独立指導者 ベルナルド・オイギンスはラ・プラタ連合州(現・アルゼンチン)に亡命し、解放者ホセ・デ・サン=マルティンの率いるアンデス軍(英語版)とともにアンデス山脈越え(英語版)を行い、1817年のチャカブコの戦い(英語版)に勝利し、再びチリに入った。サン=マルティンはチリ議会からチリ総督になることを要請されたが、これを拒否したため、1818年にオイギンスがチリの独立を宣言し、初代大統領となった。同年中にチリ=ラ・プラタ連合軍がマイプーの戦い(英語版)でスペイン軍を破ると、チリのスペインから独立が確定した。その後、サン=マルティンはペルーに向かい、シモン・ボリーバルとともにペルーを解放することになる。 1818年から1823年にかけて、オイギンスは自由主義的改革を進める。まもなく保守主義者と自由主義者の対立が繰り広げられたが(チリ内戦(英語版))、同時期のラテンアメリカの多くの国でなったような自由党と保守党の果てしない内戦には至らず、1830年のリルカイの戦い(スペイン語版)で保守派が勝利して国政の実権を握った。保守派の指導者だったディエゴ・ポルターレス(英語版)は1833年憲法を制定した。この憲法では大統領権と中央集権的要素が強く、地方自治と議会の自立性は損なわれたものの、強力な保守支配を実現し、パラグアイと同様にチリは安定した体制を築いた。以降強力な保守支配による政治的安定を実現した「ポルターレス体制」時代にチリは国力を蓄えることになったが、既にこの時期には他のラテンアメリカ諸国と同様にイギリスによる経済進出が進み、チリ経済もイギリスへの従属が始まった。 1836年にボリビアのアンドレス・デ・サンタ・クルス大統領がペルーを併合し、ペルー・ボリビア連合の建国を宣言すると、北方の大国の出現に脅威を感じたチリ政府は、亡命ペルー人や、アルゼンチンの指導者フアン・マヌエル・デ・ロサスとともにこの連合を攻撃し、1839年には連合を崩壊に追い込んだ(連合戦争(スペイン語版、英語版)、ペルー・ボリビア戦争とも)。 1851年に保守党からマヌエル・モント(英語版)が大統領に就任すると、電信、鉄道などが整備され、折からの銅の生産増や、政治的安定も相まってチリは急速に成長する。また、この時期にヨーロッパ、特にドイツからのまとまった数の移民が導入された。1849年に自由党が結成されたことをきっかけに1860年代に入ると1861年から1891年まで自由主義者が政権を握り、外交面では1865年からのスペインによる南米再侵略を打ち破り、また、独立以来混乱を続けていたボリビアのマリアーノ・メルガレホ大統領から、ボリビア沿岸部の硝石鉱山の権利を購入した。 そして、1860年のオルリ・アントワーヌ・ド・トゥナンによるアラウカニア・パタゴニア王国の建国をきっかけに、1862年からアラウカニア制圧作戦が進み、19世紀の間に南部のマプーチェ人の居住地とパタゴニアが国家に組み入れられた。 経済史として、チリは1857年恐慌で金融危機を初体験し、大統領による統制経済への疑問から1860年銀行法にフリーバンキング制度を採用した。民間資本による自由発券銀行の設立を認めたが、身内金融は特に規制されていなかった。1873年恐慌からの銅、銀や小麦の市場価格低迷は純輸出に慢性的なダメージを与えた。正貨は容赦なく流出し、準備率は落ち込んでいった。
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