独立と国家成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 15:11 UTC 版)
「ルーマニア領の変遷」の記事における「独立と国家成立」の解説
1859年、ワラキアとモルダヴィアは、両公国の公位を継いだアレクサンドル・ヨアン・クザが統一を宣言した。後継の王としては1866年の投票の結果、カロル1世が選出されたが、当時のルーマニアはオスマン帝国の属国という立場で、完全な独立を勝ち得てはいなかった。そのため、対オスマン帝国の露土戦争では、ロシアの「消極的な」同盟国として参戦し、勝利した。戦後、ロシアは南ベッサラビアをルーマニアから回復しようと試みたが、この提案は繰り返し退けられていた。交渉の末、1877年の条約で、ロシアはルーマニアの領土侵害は行わないことを約束していたが、わずか1年後、北ドブロジャやズミイヌイ島を引き渡し、代わりに南ベッサラビアを譲渡させるという内容のサン・ステファノ条約をルーマニアに代わって締結し、この約束を破ることになる。条約は、後のベルリン会議で西欧諸国によって改正され、ここでも南ベッサラビアでのロシア支配が認められた。1878年、ルーマニアはベッサラビアの領土を失う一方、オスマン帝国からの独立を獲得し、ドナウ・デルタなど北ドブロジャの支配権も得ている。 ベルリン会議での領土交渉において、ドナウ川に浮かぶアダ・カレ島(城塞島)については議論されなかった。ハンガリーのジャーナリスト、エミル・レンジェルは、「アダ・カレ島はもともとトルコに帰属していたが、1878年のベルリン会議に出席した平和主義者たちは、この島の存在を忘れていた」と述べている。会議での取り決めによると、ドナウ川は中立地帯になっており、オーストリア=ハンガリー帝国は、島を無人地帯と解釈して領有を主張した。ハンガリー国会の議員は、同意を得るためオスマン帝国側にも連絡をとって、1913年に島を併合した。島には、オーストリア=ハンガリー帝国の軍隊が駐留していたが、一般市民も居住しており、数十年の間帰属が不明瞭な状態が続いていた。1881年、ルーマニア王国の独立が成立した。 20世紀のはじめに勃発した第一次バルカン戦争では、バルカン半島での勢力バランスが不均衡であることが露呈し、戦後、オーストリア=ハンガリー帝国は、ブルガリアを支援する一方、セルビア王国とは対立した。ルーマニアはこれに同調せず、交渉が失敗に終わると、1913年、ブルガリアに宣戦布告するかたちで第二次バルカン戦争に加わった。結果はルーマニアの勝利に終わり、1878年にはシリストラなど、南ドブロジャを獲得した。
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