独立と現代チュニジア(1956年-)
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「チュニジアの歴史」の記事における「独立と現代チュニジア(1956年-)」の解説
独立後、王国の初代首相にはブルギーバが選ばれた。翌1957年にブルギーバはベイを否定して共和制宣言を行い、大統領制が採用され、チュニジア共和国が成立した。こうして首相から横滑りで大統領となったブルギーバは、1958年の新ドゥストゥール党大会で党と政府を完全に掌握し、同年ヨーロッパ人所有地の国有化政策が発表された。1959年には憲法を制定して社会主義政策を採用した。 チュニジアは独自のドゥストール社会主義を採用したものの、ブルギーバの現実的な政策から対外政策は穏健なものになった。独立当初のフランスとの関係は例外的に悪化し、アルジェリア戦争中の1961年にフランス軍とチュニジア軍が衝突したが、1963年9月にチュニジアのビゼルト基地からフランス軍が撤退すると、以降ブルギーバは親欧米政策に徹した。第三世界諸国との関係では、アラブ世界との関係においては1958年にアラブ連盟に加盟した。チュニジアはエジプトのナセル主導の汎アラブ主義には反発しつつも1967年の第三次中東戦争と1973年の第四次中東戦争ではアラブ側で派兵した。1982年のレバノン内戦により、パレスチナ解放機構(PLO)がレバノンを追われると、PLOの本部がチュニスに移動した。アフリカ世界との関係においては、1963年のアフリカ統一機構(OAU)の原加盟国の一国となった。 内政面では社会主義思想とブルギーバによる社会主義に影響を受けたイスラームの教義の独自解釈によって、重婚の禁止、離婚法の制定、ラマダーン(断食)の最中の労働の合法化など世俗的な改革が進められた。1962年から三カ年計画が実施され、フランスとの激しい対立政策により、フランスからの援助が得られなくなったためにアメリカ合衆国や東ヨーロッパ諸国などの援助により、インフラストラクチュアや教育の拡充が進められた。経済面では1964年に南部で油田が発見され、チュニジアも産油国の一員となった。アフマド・ベンサラー経済相による農業の集団化が進められたが、累積債務の増加など経済政策の失敗が明らかになると1969年にベンサラーが解任され、社会主義経済政策は終焉した。 1969年にブルギーバは体力の衰えから首相職を設置した。1970年に自由主義者のヘディ・ヌイラが首相に就任すると、チュニジアの経済政策は自由主義に路線変更した。1974年1月にはリビアのカダフィ政権と相互にチュニジア・リビア両国の合邦を宣言し、アラブ・イスラム共和国(チュニジア・リビア連合)の成立が宣言されたが、同年中に崩壊した。この措置にはマスムーディ外相をはじめとするマシュリク(東方アラブ)諸国との友好を求める勢力の意向があった。 ヌイラの政策も当初は石油輸出や観光業の振興によって経済が安定したが、1978年の「暗い木曜日事件」と、1980年のリビアで訓練されたチュニジア人武装組織がガフサを襲撃したガフサ事件によってヌイラは失脚し、後を継いだムザーリー首相は事実上の一党制から複数政党制への移行を約束した。しかし、複数政党制への移行は実現せず、1983年にはチュニスで食糧暴動が発生するなど社会不安が高まり、この事件による経済低迷により、ムザーリーはブルギーバに解任された。 後任のスファル首相が1987年に解任された後、同年10月にブルギーバはベン・アリーを首相に任命したが、高まる政治不安への国民の不満を背景に行われた同年11月の無血クーデターによってブルギーバはベン・アリーに解任された。当時84歳だったブルギーバは終身大統領を辞し、ベン・アリーが大統領に就任した。 ベン・アリーは1988年に憲法を改正して複数政党制を認め、経済面でも世界銀行の構造調整計画を受け入れて経済の再建を行い、1970年代半ばから続いていた政治的危機も克服した。このような功績によりベン・アリーは1989年の選挙で再選された。しかし、同時にあった議会の選挙では国会は与党が全議席を独占し、事実上の一党制の継続が確認された。 1991年の湾岸戦争ではイラクのサッダーム・フセイン政権を支持し、アラブ人の連帯を唱えた。1993年にははじめて野党の出馬が許された選挙が実施された。1990年代には隣国アルジェリアでイスラム原理主義組織によるテロが繰り広げられ、内戦に発展したため(アルジェリア内戦)、原理主義組織は厳しく弾圧された。 2002年にはアフリカ連合(AU)の原加盟国となった。
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