一党制
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一党制(いっとうせい)とは、合法政党が一党しか存在せず、ほかの政党は存在が許されない政党制である。一党支配制とも。広義にはヘゲモニー政党制などの事実上の一党独裁制も含む。
概要
サルトーリ以前における一党制の概念
1970年代までの政治学者は、一つの政党が突出して大きい政党制を一党制と呼び、独裁政治に分類する場合が多かった。一部には、与党が連続して選挙で勝つ国は民主主義ではないと考える者もいた。
後述するサルトーリによる一党制の概念により、一党制を幅広くとらえる考え方は、政治学では受け入れられなくなった。しかし通俗的には一党制を広くとらえる用語法は根強く残っている。独裁と結びつく一党制を悪口として用い、様々な政敵にこの語を貼り付けようとする人が多いためである。
サルトーリによる一党制の概念
ジョヴァンニ・サルトーリが提唱した政党システム論は、一党制の拡張的用法を拒否し、厳格に一党だけのシステムにのみ適用する。一党制とは、一つの政党以外が存在を許されないシステムである。それは、一つ以上の政党があるヘゲモニー政党制や、制度的に競合が保障されている一党優位政党制と区別される。
実際の分類では、一党制とヘゲモニー政党制との境界は微妙な場合がある。憲法や法律で一党制が規定されていれば、一党制と判断できる。有力野党が非合法化され、弾圧があっても、ほかの野党がわずかな議席を持っているならば、それは一党制ではなくヘゲモニー政党制である。しかし弾圧によって力のある野党が除去され、結果として議席のすべてを一党が占めている場合に、小政党が認められているのかどうかの判定は、概念的にも資料入手の点でも難しい。
サルトーリは、この一党制をさらに分類して、全体主義一党制、権威主義一党制、プラグマティック一党制を提唱した。しかしこの用語法は普及していない。理由の一つは、全体主義概念の未確定にある。
一党制の例
現存する一党制における例としては、キューバ(キューバ共産党)、ベトナム(ベトナム共産党)、ラオス(ラオス人民革命党)、エリトリア(民主正義人民戦線)が挙げられる。
かつての一党制における例としては、ソ連(ソビエト連邦共産党)、モンゴル(モンゴル人民革命党)が挙げられる。
台湾省戒厳令が布告中(蔣介石・蔣経国政権下)だった中華民国の中国国民党と中国民主社会党・中国青年党[1]、中華人民共和国の中国共産党と民主党派[2]、北朝鮮の朝鮮労働党と天道教青友党・朝鮮社会民主党のように、複数の合法政党(衛星政党)が存在しても実態としては特定の一政党が国家を支配しているような場合はヘゲモニー政党制に分類される。
脚注
出典
- ^ 戒厳令布告の根拠となった中華民国の戒厳法は、第11条で「戒厳地区の最高司令官は、集会・結社及び遊行(パレード)、請願を停止する権限を有する」と規定している(戒嚴法(S-link 電子六法全書)。
- ^ 中国共産党の賈慶林・中央政治局常務委員が2009年に人民日報に寄せた『中国の特色ある社会主義路線の上で、中国共産党の指導する多党協力と政治協商制度を不断に整備し、発展させる』によれば、「中国共産党の指導する多党協力と政治協商制度は、西側の二大政党制や多党制のような、一方が政権に就けばもう一方が下野する権力争奪型の政党関係とも、一党制のような権力独占型の政党関係とも異なり、民主的に協議し、互いの心の底まで打ち明けて親しく交わる、斬新な協力型の政党関係なのである」とされており、一党制ではなく「中国共産党の指導する多党協力」だと主張されている(中国の政党制度と一党・多党制との4大相違点(人民日報日本語版 2009年11月2日))。
参考文献
- ジョヴァンニ・サルトーリ『現代政党学』(普及版)、岡沢憲芙・川野秀之訳、早稲田大学出版部、2000年(原著:1976年) ISBN 4657008293
関連項目
一党制
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1968年11月19日、青年将校による無血クーデターで14人で構成される国民解放軍事委員会(英語版)(CMLN)が設立され、ムーサ・トラオレ中尉が大統領と委員会の議長に就任した。政権を掌握した軍部は経済改革を断行しようとしたが、国内の政争とサヘルの干ばつに阻まれた。 1974年には新憲法が制定され、一党制を採用するとともに民政移行を予定するものだったが、実態は軍部が権力を握ったままだった。1976年9月には民主集中制に基づく政党のマリ人民民主同盟(英語版)(UDPM)が結成された。こうして一党制が敷かれたマリにおいて、1979年6月に総選挙(英語版)が行われ、唯一の大統領候補であるトラオレが99%の票を得て当選した。一党制政府への権力集中に腐心したトラオレは1980年に学生による反政府デモとそれによる3回のクーデターという脅威に直面したが、それを残忍に鎮圧した。 政治情勢は1981年と1982年に安定化に向かい、1980年代を通じて比較的に平穏だった。1985年12月末、マリとブルキナファソの間で鉱産物の豊富なアガシェ(英語版)をめぐる短期間な戦争が勃発した。 内政では国有企業の制度改革計画を定め、汚職に対処しようとした。穀物市場の自由化が行われ、国際通貨基金との制度改革合意にもこぎつけた。しかし、IMFが定めた緊縮財政は国民に不人気であり、また国の指導者たちが同じ緊縮政策に制限されていない状況にも不満だった。当時アフリカで広まった複数政党制への移行を求める声が高まるにつれて、トラオレは限定的ながら政治上の自由化を行った。例えば、1988年6月の国民議会選挙(英語版)では1つの議席に複数のUDPM党員が立候補することが許可された。また一党制の体制内でどうやって民主化を実現するかを討議する会議が全国規模で開催されたが、完全な民主制導入は拒否された。 しかし、1990年には民主化主導全国会議(英語版)(CNID)とマリ民主同盟(英語版)(ADEMA)など組織的な反対運動が組織された。政治情勢が不穏になる中、1990年中にはマリ北部で種族間の暴力が増えた。長きにわたる干ばつに耐えかねてアルジェリアとリビアに移住した多くのトゥアレグ人が帰国したため、遊牧民族のトゥアレグ人とすでに定住した住民の間で緊張が生じたのであった。トラオレ政権は北部のトゥアレグ分離主義運動を恐れて緊急状態を宣言し、トゥアレグ人の鎮圧にあたった。1991年1月に平和合意が結ばれたが、社会不安と断続的な武装衝突が続いた。
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