一党制期の政党活動
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トルコ共和国の建国が宣言された1923年11月には、祖国解放戦争を主導して、独裁的な権力を握ったムスタファ・ケマルの支持組織として、「人民党(Halk Fırkası)」が設立された。人民党は、祖国解放戦争期にケマルの支持母体となった、トルコ大国民議会の「権利擁護グループ」を起源とし、戦後の1923年に行われた総選挙で、「第二グループ」と呼ばれた反対派勢力を一掃して、ケマル政権を支える翼賛勢力となった。 人民党は、1924年のカリフ制廃止に合わせて、共和人民党(Cumhuriyet Halk Fırkası)に改称した。直後に旧人民党の反主流派であるキャーズム・カラベキル、ヒュセイン・ラウフ、アドナン博士、アリ・フアトらが進歩主義者共和党(Terakkiperver Cumhuriyet Fırkası)を結成した。共和人民党主流派はこれに動揺し、事態はイスメト内閣の総辞職と、アリ・フェトヒ内閣の成立に発展した。しかし、クルド人シェイフ・サイトの反乱に対する強攻策を唱えたイスメトが首相に復権すると、1925年に反乱対策を口実に治安維持法が制定され、進歩主義者共和党も解散に追い込まれた。1926年には、ケマルの暗殺未遂事件が発覚し、これをきっかけに反対派は一斉に政界から追放され、共和人民党による一党独裁体制が確立した。 ケマル自身は反対派を排除しつつも、一党独裁体制の弊害を理解しており、1930年には体制内野党として、自らの腹心のアリ・フェトヒを党首とする自由共和党(Serbest Cumhuriyet Fırkası)を設立したが、同党への支持が高まり、政権批判の受け皿となる兆候を見せると、年内に解散させられた。
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