一党制時代
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1970年にバンダはマラウイ会議党の終身党首となり、翌1971年には国会でバンダを終身大統領とすることが議決された。また、マラウイ会議党下の民兵組織であるYoung Pioneers を結成し、1990年代まで国家のコントロールを権威主義的に行った。 バンダは、常に自身を"終身大統領ングワジ・ヘイスティングズ・カムズ・バンダ博士閣下"と呼称させる独裁者であった。バンダへの忠誠はあらゆる場面で要求された。全ての商業ビルにはバンダの公式写真を壁に掛けることが要求され、その他のポスターや時計、絵画など一切のものを、バンダの写真より上部に設置することが禁止された。また、映画や演劇、学校の集会など、ほぼ全ての催し物の前には国歌が演奏されたほか、映画館においては国歌の演奏中はスクリーンにバンダ大統領が国民に手を振るシーンが流されていた。バンダが町を訪れる際には、地域の女性らが空港へ迎えに上がってダンスを行う必要があり、その折には、特別な服装とバンダの公式写真の掲揚を行うことが要求された。さらに、国で唯一のラジオ放送は、大統領のスピーチと政府のプロパガンダを放送していた。 また、バンダは女性がズボンを履くことと、膝が露出するようなスカートを履くことを法律により禁止した。また、男性の場合は髪の毛を襟首より下に伸ばすことが禁じられていた。教会の認可は政府が行い、エホバの証人のような特定の宗教団体に所属する人物は迫害され、周辺の国へと追い出された。また、全てのインド系のマラウイ市民は、家や職場から強制的に立ち退かされ、大きな都市のインド人居住区へと移住させられた。さらに、移住を行うことのほか、個人資産を海外へ持ち出すことや、他国の通貨を持ち込むことは法律で禁じられていた。そのため、資産や収入を手放さなければ、マラウイを去ることができなかった上、ほとんど全ての財産を手放し、海外でやり直したいと考えた人々にすら、海外渡航ビザはめったに下りなかった。なお、全ての旅行者は飛行機での出入国に際して手荷物の検査を受けた。 全ての映画は映画館で上映されるより前に、マラウイ検閲委員会によるチェックが行われていた。ヌードや政治的な題材など、検閲委員会により不適切と考えられた作品は当該場面の編集を受けた。また、手紙も検閲委員会によって監視されていた。海外との手紙のやり取りの場合、開封され、読まれたうえ、時には編集を受けていた。ビデオテープについても、検閲官によるチェックを受けるために、検閲委員会へ郵送する必要があった。検閲を受けたビデオテープには、検閲済みのステッカーが付与されて、所有者へと送り返された。さらに、電話は傍受されており、会話中に政治批判を行った際には通信が切断された。書店で販売される書物も検閲を受けており、ニューズウィークやタイムのような雑誌はページ丸ごとあるいはページの一部分が切り取られていた。 なお、バンダ自身は不正財蓄により非常に裕福であった一方、バンダの統治期間中のマラウイは、その大部分が世界で10指に入る最貧国の1つであった。バンダは、数軒の大邸宅や企業、個人用ヘリコプター、自動車、その他の贅沢品を所有していた。またバンダ大統領を非難する発言は厳しく禁じられ、これを破ったものは多くが追放や投獄されたほか、マラウイ社会主義者同盟の指導者であったアッタチ・ムパカチのように暗殺された者すらいた。これらの行為により、バンダとマラウイ政府は、ヒューマン・ライツ・ウォッチとアムネスティ・インターナショナルから人権侵害行為を非難された。なお、1994年に大統領を引退した後、バンダは殺人と証拠隠滅の容疑で起訴された。その後、バンダは1997年11月に南アフリカ共和国の病院において101歳で病没した。 また、バンダはアパルトヘイトを行う南アフリカ共和国と外交関係を維持した、植民地独立後の数少ない指導者であった。
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