一党制期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/14 02:34 UTC 版)
1922年、アンカラ政府はアナトリアのエーゲ海沿岸の都市イズミルを占領していたギリシャ軍を追い、連合国と休戦協定を結んだ。解放戦争においてアンカラ政府の首班、全軍の総司令官として活躍し、救国の英雄としての名声とともに、議会内で絶対的な指導力を握るに至っていたムスタファ・ケマルは、この実力を背景に、イスラム教を国教とする多民族国家であったオスマン帝国を廃絶し、新たに世俗的なトルコ民族の国民国家としてのトルコ国家を建設することを企図していた。 1922年秋、講和条約の交渉が始まるに際し、交渉の場にアンカラ政府とともにイスタンブール政府の代表も招かれた。大国民議会はここにおいてイスタンブール政府の廃絶を決定し、1922年11月1日をもって皇帝の世俗政治指導者としての側面であるスルタン制の廃止を決議、11月4日にイスタンブール政府の内閣は総辞職し、11月17日には廃帝メフメト6世が国外に亡命してオスマン帝国政府は滅亡した。 さらにケマルは議会内外の根強い反対を押し切り、1923年10月29日に議会に共和制を宣言させてトルコ共和国を建国、自らが大統領に就任し、側近のイスメト(のちのイノニュ)を首相に指名した。1924年制定の共和国最初の憲法は、国権の各権限を大統領と議会を中心に統合する強い権限が付与された。トルコ共和国初代大統領となったケマルは、自身を党首とする共和人民党の一党独裁制を確立して議会の全議席を自党で占めさせ、議会は大統領の意のままに様々な近代化改革を推進していった。
※この「一党制期」の解説は、「トルコ大国民議会」の解説の一部です。
「一党制期」を含む「トルコ大国民議会」の記事については、「トルコ大国民議会」の概要を参照ください。
- 一党制期のページへのリンク