トルコ共和国の建国
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「ムスタファ・ケマル・アタテュルク」の記事における「トルコ共和国の建国」の解説
1918年11月13日、イスタンブールのハイダルパシャ駅に着いたムスタファ・ケマルは、停泊する戦勝国艦船を目の当たりにした。1919年4月、シェヴケト・トゥルグート・パシャ(英語版)、ジェヴァート・パシャ、ムスタファ・フェヴズィ・パシャは秘密裏に会談を持ち、「三人の誓約」(Üçler Misâkı) と呼ばれる報告書を作って国土防衛のため軍監察官区の創設を決定した。4月末、ムスタファ・フェヴズィは国防大臣シャーキル・パシャに報告書を提出し、4月30日、国防省とメフメト6世は、参謀総長の承諾を受けた決定を承認した。そして、イスタンブールに第1軍監察官としてムスタファ・フェヴズィ・パシャが、コンヤにユルドゥルム軍監察官(後に第2軍監察官)としてメルスィンリ・ジェマル・パシャ(英語版)が、エルズルムに第9軍監察官(後に第3軍監察官)としてムスタファ・ケマル・パシャが、ルーメリ軍監察官としてヌーレッディン・パシャが派遣され、第13軍団が国防省直属となる計画であった。この計画に従い、ムスタファ・ケマル・パシャは、東部アナトリアに派遣されることになった。5月15日、ムスタファ・ケマル・パシャは、ユルドゥズ宮殿に伺候し、メフメト6世との最後の会見の後、5月16日、貨客船「バンドゥルマ」で出航し、5月19日、サムスンに上陸した。後にトルコ共和国は、サムスン上陸の日をもってトルコ祖国解放戦争開始の記念日としている。ムスタファ・ケマルはアナトリア東部のエルズルム、スィヴァスにおいてアナトリア各地に分散していた帝国軍の司令官たち、旧統一と進歩委員会の有力者たちを招集。オスマン帝国領の不分割を求める宣言をまとめ上げ、また「アナトリア権利擁護委員会」を結成して抵抗運動の組織化を実現する。 抵抗運動の盛り上がりに驚いた連合軍が1920年3月16日、首都イスタンブールを占領すると、首都を脱出したオスマン帝国議会議員たちは権利擁護委員会のもとに合同し、アナトリア内陸部のアンカラ(後のトルコ共和国首都)で大国民議会を開いた。彼らは自らを議会を解散させたオスマン帝国に代わって国家を代表する資格を持つ政府と位置付け、大国民議会議長に選出されたムスタファ・ケマルを首班とするトルコ大国民議会政府(アンカラ政府)を結成した。ムスタファ・ケマルはアンカラ政府内で自身に対する反対者を着々と排除して運動内での権威を確立しつつ、占領反対運動をより先鋭的な革命政権へとまとめ上げていった。また、モスクワ条約を結んで政敵エンヴェル・ベイを支援していたソビエト連邦の同盟国になる一方で、政権内に傀儡の公式トルコ共産党(トルコ語版)をつくり、共産主義者の勢力伸長を警戒した。 この頃、アンカラ政府がアナトリア東部に支配地域を拡大する一方、西方からはギリシャ軍がアンカラに迫っていた。ムスタファ・ケマルは自ら軍を率いてギリシャ軍をサカリヤ川の戦い(英語版)で撃退した。この戦いの後、アンカラ政府のトルコ軍は反転攻勢に転じ、1922年9月には地中海沿岸の大商業都市イズミルをギリシャから奪還した。彼の有名な命令「全軍へ告ぐ、諸君の最初の目標は地中海だ、前進せよ("Ordular, ilk hedefiniz Akdeniz'dir. İleri!"、この文の後の発言は検閲対象となったため不明)」は、このときに発せられたものである。 反転攻勢の成功により、アンカラ政府の実力を認めた連合国に有利な条件で休戦交渉を開かせることに成功した。同年10月、連合国はローザンヌ講和会議にアンカラ政府とともにイスタンブールのオスマン帝国政府を招聘したが、ムスタファ・ケマルはこれを機に帝国政府を廃止させて二重政府となっていたトルコ国家をアンカラ政府に一元化しようと図り、11月1日に大国民議会にスルタン制廃止を決議させた。「スルタン=カリフ」の聖俗一致を改めさせ、世俗権力である「スルタン」の地位を廃し、11月19日に大国民議会にアブデュルメジト2世を象徴的なカリフに選出させた後、インドのムスリムから届いた手紙を「政治行為」としてオスマン皇族を全て国外退去させた。翌1923年には総選挙を実施して議会の多数を自派で固め、10月29日に共和制を宣言して自らトルコ共和国初代大統領に就任した。
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