イスタンブール・コスタンティニエ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 08:28 UTC 版)
「イスタンブール」の記事における「イスタンブール・コスタンティニエ」の解説
現代のトルコ語の名称はイスタンブール İstanbul(発音 [isˈtanbuɫ])であるが、これは10世紀以来のものでトルコの典拠によれば表現の幅があるが最初にアルメニア語やアラビア語で実証されている。これはギリシャ語の語形 "εις την Πόλιν" または "στην Πόλη" [istimbolin]「街へ」、「街で」、"εἰς τὴν Πόλιν", "(is) stin polin"(イス・ティン・ポリン「都市に、町へ」)から取られ、それ故これを基本にギリシャ語の用法では単に「都市」や「街」と呼んでいる。冠詞の一部分や他の接辞のギリシャ語の地名への結合はオスマン期以前では一般的なもので、ナヴァリノの代わりにアヴァリノ、サティネスの代わりアティネスなどがある。似たような例には現代のトルコの地名でギリシャ語由来のものにはイズミットなどがあり、初期にはイズニクミット İznikmit でニコメディアから、イズニクはギリシャのニカエア Nicaea、サムスン (s'Amison = "se + Amisos")、İstanköy はギリシャの島コス島などがある。語頭のiの起こりはこれらの名称の古いギリシャ語の語形の一部を is- と一緒に反映しているか、部分的に第二の音挿入により、トルコ語の音素配列構造を成している。İstanbul は1453年の征服前でさえ普通の話し言葉では一般的な名称であったが、オスマンの当局はコスタンティニエ Kostantiniyye など他の名称の公式の使用を特定の状況で好んでいた。故に Kostantiniyye は硬貨の鋳造に17世紀後半使われ、19世紀に再び使われている。 コスタンティニエ Kostantiniyye(القسطنطينية al-Qusṭanṭiniyah クスタンティニーヤ、オスマン語: قسطنطينيه Kostantiniyye コスタンティニエ)の名称はイスラム世界で知られるようになった名称である。トルコ人に先立ってコンスタンティノポリスに接触したイスラム教徒たちの書いた史料では、9世紀にはこの街の名称であった。これは、アラビア語のコンスタンティノープル Constantinople の語形の翻訳借用でギリシャ語要素の -polis の代わりにアラビア語で「-の場所」を意味する語を最後に当てている。オスマンにより攻略された1453年以降、オスマン帝国では一番使われた公式名称で、帝国が崩壊する1923年までのほとんどの期間使われていた。しかしながら、いくつかの時期にオスマンの権力者は他の名称を好んだ。オスマンの役所や裁判所では Kostantiniyye を be-Makam-ı Darü's-Saltanat-ı Kostantiniyyetü'l-Mahrusâtü'l-Mahmiyye のような正式な文書で元の場所を表現する複雑なやり方の一部として使っていた。19世紀、トルコの本の印刷では外国でコンスタンティノープルを使うのとは対照的に使われていたが、同時期にイスタンブールは公用語の一部としてオスマンの軍隊の高官 (İstanbul ağası) や都市の身分の高い行政官 (İstanbul efendisi) の肩書きの一部に使われていた。イスタンブール İstanbul や同じ名称の他のいくつかの異なった表現の名称も幅広くオスマンの文学や詩で使われた。 1923年のトルコ共和国の建国後はイスタンブール以外の別の名称はトルコ語では使われなくなり、1930年3月28日のトルコの郵便法ではトルコ当局は外国人に公式にこれまでの伝統的なトルコ語以外での名称(コンスタンティノープルやツァーリグラードなど)で街を言い表すの止める他、自分たちの言語でもイスタンブールを唯一の都市の名称として取り入れるよう求めた。手紙や小包をイスタンブール "Istanbul" ではなくコンスタンティノープル "Constantinople" で送るとトルコの郵便当局により配達されることはなく、このことは世界的に新しい名称の施策が広まることに貢献した。
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