トルコ共和国の改革
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1924年のカリフ制の廃止とともに、ワクフを管理するワクフ省の廃止、シャリーアの廃止と憲法の制定、イスラム学院(メドレセ)の閉鎖が行われ、政治と教育の世俗化がはかられた。1925年には神秘主義教団の修行場が閉鎖され、フェズが廃止されて着衣の西洋化が強要された。 続いて民法が改正され、一夫多妻制が禁じられた。さらにアラビア文字とヒジュラ暦が廃止され、トルコ語の表記にはラテン文字、暦にはグレゴリオ暦を用いることが定められた。1928年、脱イスラム化改革の集大成として憲法のイスラムを国教と定める条項が削除された。しかし、宗教が政府から一切切り離されたわけではなく、イスラムを政府の意図の及ぶ範囲で管理するために宗務庁が設立され、モスクやクルアーン(コーラン)の読み書きを教える学校がその管轄下に置かれた。オスマン帝国の皇帝がカリフとして金曜日の集団礼拝を行なっていたアヤソフィアも1934年には同日「アタテュルク」の名字を得たケマルによって非宗教的な博物館へ転用された。 経済の面では、当初はオスマン帝国末期から現われつつあった民族資本の育成をはかり、トルコ勧業銀行 (Türkiye İş Bankası) の設立、産業奨励法の制定が行われた。トルコはこうして私企業による国民経済の樹立を目指したが、大きな成果があがらないまま、1929年の世界大恐慌に巻き込まれた。恐慌はトルコ経済を支えた農産物の輸出に大打撃を与えたが、これをきっかけにトルコ共和国はソビエト連邦の計画経済の影響を受けた「国家資本主義」政策に転換した。1930年代のトルコは国立銀行を次々に設立するとともに、外国系企業を買収して国営企業を建設し、国家資本による国民経済の創出を押し進めた。 文化的には、イスラムに代わる国民統合と西洋化改革を支えるイデオロギーが必要となった。そのために革命の英雄としてのムスタファ・ケマルに対する個人崇拝が起こり、1934年の創姓法制定によるトルコ人の姓の義務付けにともない、ケマルには議会によって「父なるトルコ人」を意味する「アタテュルク」の姓が贈られた。革命を貫く共和主義、民族主義、階級闘争の否定を意味する人民主義、世俗主義、国家資本主義エタティズム、帝国主義への抵抗やケマル主義の継続を意味する革命主義などの原理はまとめて「6本の矢」と呼ばれるようになり、共和人民党一党支配下での絶対の国是とされた。また、それまでトルコ人としての意識が希薄であった国民に、トルコ国家を構成するトルコ国民としての意識を植え付けるために、学校では中央アジアからの移住やアナトリアの古代文明をトルコ民族と結びつける「トルコ史テーゼ」に基づくトルコ民族史が教育されるようになっていった。 これら一連の改革により、ケマル・アタテュルクの亡くなった1938年までにトルコ国民による国民国家と国民経済の創出がかなりの段階まで進み、トルコ革命は一定の成功を収めたと評価される。 しかし、国民経済創出の過程では農村よりも都市、農民や労働者よりも地主や民族資本家のみが経済的に優遇され、特にトルコ国民の大多数を占める地方の農民の地位はあまり改善されなかった。トルコ革命を積極的に支持したのは実際には一握りの都市のエリート層に過ぎず、第二次世界大戦を経て多党制が導入されると、アタテュルクの遺した共和人民党よりもイスラムの尊重や自由経済の導入を説く保守的知識人を中核とし、地主や資本家の利害を代表する民主党にむしろ国民の支持が集まった。1950年に民主党が政権を奪うと国家資本主義や世俗化の路線は大幅に緩められ、トルコ革命の敷いたトルコ共和国の基本路線は変容を遂げていった。
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