西洋列強によるオスマン帝国領の分割とトルコ革命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/13 17:42 UTC 版)
「ヒラーファト運動」の記事における「西洋列強によるオスマン帝国領の分割とトルコ革命」の解説
詳細は「en:Partitioning of the Ottoman Empire」を参照 「トルコ革命」も参照 第一次世界大戦で中央同盟国側についたオスマン帝国は協商国に大敗し、ヴェルサイユ条約(1919年)によって領土割譲されたものの、戦勝国側はオスマン帝国スルターンのカリフとしての地位を保護することを約束した。しかしセーヴル条約(1920年)では、オスマン帝国軍の勢力下に残っていたパレスチナ、シリア、レバノン、イラクなどの領土が追加で割譲された。この状況に対し、アナトリア各地で分割に反対する抵抗運動が起き、ムスタファ・ケマル・アタテュルクがトルコ革命を主導することとなった。そして、アタテュルクたちは1923年にローザンヌ条約でセーヴル条約を廃止することに成功。彼によるトルコ共和国の改革によって、1924年3月3日にカリフ制が廃止された。アタテュルクはオスマン帝国領であったキレナイカ(現在のリビア)内陸部を拠点としていたサヌーシー教団の最高指導者であったアフマド・シャリーフ・サヌーシー(1873 - 1933)に対し、トルコ国外に居住していることを条件にカリフ位に就くことを要請した。しかしサヌーシーはアブデュルメジト2世のカリフ位を認めていたため、この申し出を断った。カリフ位廃位の2日後に、アラブ反乱の指導者でヒジャーズ王国国王のフサイン・イブン・アリーがカリフ即位を宣言したが、1925年にナジュドのイブン・サウード(後のサウジアラビア初代国王)に侵攻され、キプロス島へ亡命した。
※この「西洋列強によるオスマン帝国領の分割とトルコ革命」の解説は、「ヒラーファト運動」の解説の一部です。
「西洋列強によるオスマン帝国領の分割とトルコ革命」を含む「ヒラーファト運動」の記事については、「ヒラーファト運動」の概要を参照ください。
- 西洋列強によるオスマン帝国領の分割とトルコ革命のページへのリンク