西洋化改革と軍とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 西洋化改革と軍の意味・解説 

西洋化改革と軍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 01:27 UTC 版)

オスマン帝国軍」の記事における「西洋化改革と軍」の解説

18世紀以降度重なる領土喪失などによって帝国の衰退認識されるうになると、衰退の原因を軍の弱体化求め意見現れるうになる。こうして様々な軍事改革企画されるようになった1793年セリム3世新式軍「ニザーム・ジェディード」をつくり軍事改革試みたが、既存イェニチェリ反発受けて失敗に終わる。 1808年即位したマフムト2世セリム3世路線受け継ぎイェニチェリ不興買わないように配慮しつつも、西洋式軍制取り入れた新部隊を創設した1826年にはイスタンブール反乱起こそうとしたイェニチェリを、この新部隊を用いて逆に兵舎ごと覆滅し、イェニチェリ制度廃止した。こうして正式に西洋式新式軍「ムハンマド常勝軍」を創設した。 同じ頃、エジプト州ではエジプト総督のしあがったムハンマド・アリーが、オスマン帝国からの自立目指して諸改革行っていた。軍事力強化目指すムハンマド・アリーは、1811年には長年にわたりエジプト勢力を張ってきたマムルークを完全に崩壊させ、本国オスマン帝国先んじて西洋式軍隊創設することに成功していた。 こうして、シリア領有巡ってエジプトオスマン帝国は争う。この二度にわたるエジプト・トルコ戦争での軍事的敗北オスマン帝国大きな衝撃与えたプロイセンから大モルトケ招いて軍制改革行ったにもかかわらず、その新式軍がムハンマド・アリーエジプト軍敗れエジプト軍アナトリア半島西部にまで進軍したことは、当時オスマン帝国指導者層に軍備強化必要性強く認識させるのに十分な出来事であった以後徴兵制度導入などの近代的制度整備欧州列強からの兵器購入など行いクリミア戦争ではロシアに対して善戦することができた。しかし、1877年露土戦争では最終的にロシア軍イスタンブール郊外まで進軍することを許し敗北終わってしまう。また、露土戦争ではタンズィマート期に大増強を行った海軍がほとんど活躍しなかったこともあり、以後オスマン帝国において陸軍比べる海軍はその地位低下させていくことになった露土戦争の後、ドイツから軍事顧問団招いて陸軍力再建乗り出す。特に1883年赴任したフォン・デア・ゴルツによるドイツ式軍制導入と、ドイツ軍装品の大量購入大きな効果上げ1897年希土戦争では約1ヶ月決着をつけるという圧勝に近い結果得た。こうして陸軍内にはドイツへ支持好感広がっていき、これが第一次世界大戦の際に中央同盟国側で参戦する背景一つになっていく。 しかし、慢性的な財政難などもあって軍備増強は必ずしも順調に進んだわけではなくバルカン戦争ではオスマン帝国軍バルカン小国連合にも後れを取り敗北するこうした経緯もあり、第一次世界大戦ではしばらく中立保っていたが、ドイツ帝国優勢と見るや中央同盟国側に参戦し、ギリシャ・ペルシア・コーカサスに侵攻一時攻勢出たものの、大戦末期連合国反撃によってほぼ壊滅大戦終結後は、本土イズミル地方ギリシア軍占領される1923年共和制移行宣言によって正式に帝国軍解体した。

※この「西洋化改革と軍」の解説は、「オスマン帝国軍」の解説の一部です。
「西洋化改革と軍」を含む「オスマン帝国軍」の記事については、「オスマン帝国軍」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「西洋化改革と軍」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「西洋化改革と軍」の関連用語

西洋化改革と軍のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



西洋化改革と軍のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのオスマン帝国軍 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS