個人崇拝
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個人崇拝(こじんすうはい、英: Cult of personality)とは、個人を崇拝の対象に据える政治的行為、またはその様式である。
定義
ソビエト連邦指導者ニキータ・フルシチョフが1956年に「個人崇拝とその諸結果について」(ロシア語: О культе личности и его последствиях)と題された秘密演説で前指導者ヨシフ・スターリンの政治体制をこう定義したことで広く知られるようになった[1]。
共産主義の個人崇拝
一般的に革命を経験した体制下で起こりやすく、とりわけ共産主義が権力を握った国々では、スターリンを手本にしたことから、顕著に見られる[2]。共産主義の創始者であるカール・マルクスは生前に自身への「個人崇拝」を戒めており、政治的な意味合いで初めてこの言葉を使用した[3]。ソ連外の共産主義国・共産主義政党には特にコミンテルンを通じて拡散され、中国の毛沢東、フランス共産党のトレーズ、北朝鮮の金日成・金正日・金正恩(北朝鮮の個人崇拝)、ルーマニアのニコラエ・チャウシェスクなどのスターリン自身が建国・創設を支援した国や団体、トルクメニスタンのサパルムラト・ニヤゾフなど旧ソ連構成国、イラクのサッダーム・フセイン、シリアのハーフィズ・アル=アサド、リビアのムアンマル・アル=カッザーフィーなどのアラブ社会主義を掲げた国々の指導者などが代表的事例とされる[4]。第三世界におけるカリスマ的指導者や民族主義運動指導者たちへの英雄崇拝、ファシズム運動における指導者原理にも指導者崇拝の様式が見られる[2]。
1956年のソ連のフルシチョフによるスターリン批判は、党と国家との癒着、党内民主主義や官僚制の問題などの議論を回避し、もっぱらスターリン個人の粗暴な人格に責任を向けたものであり、大粛清の原因も個人崇拝の蔓延にのみ原因を求めた[4]。このように個人崇拝批判は、制度や体制の問題を個人の責任にすり替えがちであるとされる[2]。スターリンの死後もブレジネフ体制やウラジーミル・プーチン政権などソ連・ロシア史の長期政権でスターリンを模倣したと思われる個人崇拝が見られる[4]。中国では文化大革命という悲惨な結末を引き起こした反省から鄧小平は個人崇拝を厳しく禁じ、中国では個人崇拝は禁止されたが、習近平体制になってから個人崇拝が復活傾向にある。
スターリン主義を否定した新左翼も、ひとまわりして個人崇拝に至ることがある。
参考文献
出典
個人崇拝
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1968年10月、パキスタン外相からマンゴーを贈られた毛沢東は、北京の主要工場に1個ずつ分け与えた。その一つ北京紡績工場では、工場関係者がマンゴーを祭壇に設けて毎日一礼した。マンゴーが腐りかけると果肉をゆで、その汁を従業員全員に恭しく飲ませ、その後マンゴーのレプリカを祭壇に飾った。 毛沢東に忠誠を捧げる意味から、「毛沢東語録歌」にあわせて踊る「忠の字踊り」が強制され、踊らなかったら列車に乗せてもらえないことがあった。また豚の額の毛を刈りこんで「忠」の字を浮き上がらせる「忠の字豚」が飼育された。 紅衛兵は、毛沢東が学校の休校を命じると、自らの学校を破壊し教師たちに暴行を加えたり教科書を焼き捨てた。その後学校が再開されると、教える人や教材もない有様で、中華人民共和国の発展に大きな障害となった。
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個人崇拝
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「習近平の個人崇拝(中国語版)」も参照 中国共産党は歴代の最高指導者を「核心」と呼んできたが、胡錦濤前総書記の時代は集団指導体制を唱え、この呼び方をやめており、習指導体制も当初は、これに倣っていた。しかし、2016年1月8日の会議で、習総書記との関係が近いとされる天津市の代理書記である黄興国が「習総書記という核心を守らなければならない」と会議で発言した。これに続き同月11日から15日にかけて安徽省・湖北省・四川省の各省指導者がそれぞれ同様の表現の演説を発表した。さらに同月27日には、習総書記の官房長官役である栗戦書・党中央弁公庁主任が「核心意識を強めるべきだ」との表現で、習総書記への忠誠を訴えた。いずれも習総書記を党の「核心」とすることを強く示唆し、権力集中が進む中で党中央委員会総書記の位置付けに微妙な変化が生じている可能性があると朝日新聞は報じている。2016年3月16日に閉幕した同年度の全人代では、習を毛沢東や鄧小平らと同じ党中央の「核心」と呼ぶ言い方は現れなかったが、「核心意識」や「看斉意識」(みなが同じ方向を向く意識)という言葉が定着したと、朝日新聞は報じている。また、同年度の全人代において習総書記の目指す国づくりに政府や議会などが忠実に奉仕するという姿勢が目立ったとも報じられた。待ち受ける諸課題の解決に向け、団結を確認した形だが、習への忠誠を競うような空気を危ぶむ声もある。ただし、3月24日付けの日本経済新聞による全人代の詳報によると、「核心」および「核心意識」という言葉は最高指導部内でもなお十分な合意を得られていないとも報じられている。すなわち、共産党序列第3位の張徳江は閉幕式の際の口頭による会議総括で、習を念頭に「核心意識」と発言し、鄧小平時代の「核心」の言葉を想起させたが、序列4位で全国政治協商会議主席の兪正声は、政協閉幕式のあいさつで「核心」の言葉に触れなかった。「核心」および「核心意識」という言葉に関しては不協和音もあるとも報じられている。しかし指導部内で習総書記のみの力が際立つという現状は、一方で副作用を生んでいる。2016年3月には文化大革命の時代に毛沢東を賛美するために歌われた「東方紅」の歌詞を変え、習総書記をたたえる動画がネットに流出した。最高指導者を偶像化するこうした現象は、中国には久しくなかった現象である。中国共産党は、毛沢東への熱狂的な追従が文化大革命の悲劇を生んだという反省から、1982年に指導者の個人崇拝を禁じているからである。同じ頃、党最高指導部で重きをなす王岐山率いる党中央規律検査委員会の機関紙が、「千人の追従は、1人の忠告にしかず」とのコラムを掲げ、指導者への異論が封殺される風潮を戒めた。また、「核心」と並んで「最高領袖」「最高統帥」とも官製メディアで頻繁に呼ばれていることは「偉大領袖」「偉大統帥」と呼ばれた毛沢東時代を彷彿させるとする見方もある。また、巨大な陵墓を建て、書籍の発刊や記念切手も発行されるなど父・習仲勲への個人崇拝も強められているとされる。
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個人崇拝
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「サッダーム・フセイン」の記事における「個人崇拝」の解説
サッダームが大統領に就任すると、自身への崇拝が強化され、イラク国内には彼の巨大な彫刻、銅像、肖像画やポスターが飾られるようになった。それらを制作する専門の職人がいたほどであり、国民の人口よりサッダームの銅像やポスターの方が多いという笑い話が作られたほどである。サッダームに対する個人崇拝は、中東でも異例であり、突出していた。国営テレビは、毎日のようにサッダームを称える歌・詩を放送しており、歌の数は200種類あるとされていた。イラクのテレビ・ラジオの監督部門の長を務めた人物の証言によると、サッダームもこれらの放送を見ており、一時、テレビで歌を流す回数を減らしてエジプトのドラマを放送していた(実際、素人臭い作品ばかりで、出来の悪い歌が多かったためである)。これに気づいたサッダームは、担当者を呼びつけて放送を元に戻すよう指示したとされる。 また、アラブや古代メソポタミアの過去の英雄たちも引き合いに出され、即ち、サッダームはネブカドネザル2世やハンムラビ、マンスール、ハールーン・アッ=ラシードにならぶ偉大な指導者であるとされ、あげくの果てに偽造ともされる家系図を持ち出して預言者ムハンマドの子孫と喧伝された。また、アラブ世界の英雄サラーフッディーンを同じティクリート出身のために尊敬・意識していたという説もあるが、皮肉にもサラーフッディーンはサッダームが苛烈な弾圧を行ったクルド人の出身である。 サッダームの主導で空中庭園などの再建計画が開始された古代遺跡バビロンの入り口にはサッダームとネブカドネザルの肖像画が配置され、碑文には「ネブカドネザルの息子であるサダム・フセインがイラクを称えるために建設した」と刻まれ、サッダームは遺跡群内にジグラットを模した宮殿もつくろうとした。同様の計画がニネヴェ遺跡、ニムルド遺跡、アッシュール遺跡、ハトラ遺跡でも行われた。
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