ホセ・アントニオ・プリモ・デ・リベラとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ホセ・アントニオ・プリモ・デ・リベラの意味・解説 

ホセ・アントニオ・プリモ・デ・リベラ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/14 01:06 UTC 版)

ホセ・アントニオ・プリモ・デ・リベラ
José Antonio Primo de Rivera
生年月日 1903年4月24日
出生地 スペイン王国 マドリード
没年月日 (1936-11-20) 1936年11月20日(33歳没)
死没地 スペインアリカンテ
出身校 マドリード中央大学
前職 弁護士
所属政党 ファランヘ党
親族 ミゲル・プリモ・デ・リベラ(父)

在任期間 1934年10月6日 - 1936年11月20日

選挙区 カディス選挙区
在任期間 1933年11月30日 - 1936年1月7日
テンプレートを表示

ホセ・アントニオ・プリモ・デ・リベラ (José Antonio Primo de Rivera y Sáenz de Heredia,1903年4月24日 - 1936年11月20日)は、スペインファシズム運動家で、ファランヘ党初代党首。ミゲル・プリモ・デ・リベラ将軍の息子。 父ミゲルと区別するためにホセ・アントニオと一般的に呼ばれる

1936年、スペイン人民戦線政府により正当な裁判を経ずして銃殺された。

死の直前

人民政府成立直後、ホセ・アントニオは銃の不法所持を理由に人民戦線の支配する警察に逮捕された。この時、人民戦線政府の大統領だったマヌエル・アサーニャから国外退去を要請されたホセ・アントニオの答えはこうであった。

「それはできません。私の母は病気なのです」

この時、彼の母はすでに何年も前に死亡している。その点を追及するアサーニャに対して、ホセ・アントニオは落ち着き払ってこう答えたという。

「大統領。私の母は、スペインなのです」

その後程なくして、彼は銃殺刑に処された。

参考文献

外部リンク





英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ホセ・アントニオ・プリモ・デ・リベラ」の関連用語

ホセ・アントニオ・プリモ・デ・リベラのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ホセ・アントニオ・プリモ・デ・リベラのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのホセ・アントニオ・プリモ・デ・リベラ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS