二度の世界大戦とクレタ島
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 07:50 UTC 版)
「クレタ島の歴史」の記事における「二度の世界大戦とクレタ島」の解説
「希土戦争」、「ギリシャとトルコの住民交換」、および「クレタ島の戦い」も参照 ギリシアへの統合の後、クレタ島は4つの県(ノモス、西からハニア県、イラクリオン県、レシムノン県、ラシティ県)に分割され、アテネに任命された県知事がこれを統治した。クレタ島全体を統括する総督も置かれ、議会の補佐を受けた。 1914年6月28日(グレゴリオ暦)、サラエボ事件が発生し、イギリス・フランス・ロシア(三国協商)とドイツ・オーストリア=ハンガリー二重帝国(三国同盟、イタリアは不参加)の間で第一次世界大戦が勃発すると、オスマン帝国は同年秋にドイツ側に立って参戦した。ギリシア内では協商側での参戦を主張するヴェニゼロスらと新ドイツ派の国王および軍が対立し、ヴェニゼロスが解任されるなど政局が混乱したが、1915年10月には協商側がギリシア領テッサロニキを占領するなど圧力をかけ、協商側の支援を受けたヴェニゼロスが1917年に政権を奪回した。同年中にギリシアは正式に協商側として参戦した。 第一次世界大戦は1918年に終結し、講和条約として、翌1919年にはドイツとの間にヴェルサイユ条約が、1920年にオスマン帝国との間にセーヴル条約が締結された。敗戦とセーヴル条約の屈辱的条項に反発したトルコ人たちはムスタファ・ケマルの下でオスマン帝国を廃し、新たな国民国家トルコ共和国の建国に向けて動き出した。ギリシアはセーヴル条約で獲得した小アジアの領土と更にそれ以上の成果を目指してオスマン帝国領へ侵攻したが、ケマル率いるトルコ軍によって撃退された(希土戦争)。その後、ギリシア王国とトルコ共和国の間で1923年1月に住民交換協定が締結され、国境は改めて締結されたローザンヌ条約(1923年)で確定した。この住民交換協定は当然クレタ島にも適用され、クレタ島のムスリムの大半が島を去った。彼らの多くはトルコ領に確定したイズミルに落ち着いた。こうして数世紀に渡るクレタ島のイスラーム社会は消滅した。 1939年にドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が勃発した後、ドイツはヨーロッパ全域に勢力を拡張しギリシアも1941年4月にはドイツ・イタリアの占領下に置かれた。イギリス首相ウィンストン・チャーチルはその地理的重要性からクレタ島を重視し、その確保に多大な関心を示した。クレタ島にはイギリス軍・オーストラリア軍・ニュージーランド軍が派遣され、ドイツ軍の侵攻に備えた。ドイツ軍は5月に大規模な空挺作戦によってクレタ島を攻撃し占領したが、大きな損失を出した(クレタ島の戦い)。クレタ島には10,000人を超えるギリシア軍もいたが無力であり、ドイツ軍の侵攻に対してほとんど役割を果たさなかった。占領された後、クレタ島ではレジスタンスが組織され、ギリシア本土の抵抗組織から代表が送り込まれた。クレタ島で活動したのはクレタ民族組織(EOK)と民族解放戦線(EAM)であり、山間部でドイツ軍と戦った。第二次世界大戦の間、クレタ島は多くの人口を失い、村落のうち6分の5が破壊され、ハニアとイラクリオンも戦災を受けた。
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