二度の入明
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 04:10 UTC 版)
天文6年(1537年)周防国の戦国大名大内義隆の主催により、明に勘合貿易船(遣明船)を派遣を計画した際に、副使に任命される(正使は湖心碩鼎)。寧波の乱以降、日明貿易の主体は大内氏に移っていたが、形式上は室町幕府の正式な使節であった。実際には翌々年の4月19日(1539年5月7日)に3隻に分乗した460名の船団を率い五島列島を出帆する。同5月2日温州府に到着。しばらく同地に滞在し、翌年3月2日北京に入城、朝貢任務を果たす。5月28日(7月2日)に北京を離れて寧波へ向かい、風待ちの後、帰国したのは同10年6月26日(1541年7月19日)であった。 天文16年(1547年)には二度目の渡明を命じられ、今度は正使として4隻630名あまりを率い5月20日(6月7日)に同じく五島の奈留島から出発、途中海賊に襲撃され死者89人を出すも、6月1日に入明。ただし、当時の明側では日本を「十年一貢の国」(十年に1度しか朝貢貿易を許可しない国)としていたため入国を拒否された。翌年3月10日(1548年4月18日)に至ってようやく寧波上陸を許され、4月18日北京入り。再び正使として朝貢任務を果たし、同19年6月9日(1550年7月22日)、大内氏の本拠山口へ3年ぶりに帰着した。翌年、陶隆房(のち晴賢)の下克上により、大内義隆が自害、事実上大内氏が滅亡したため、これが最後の遣明船となった。 二度に渡る遣明船往来の詳細を『策彦入明記』として克明に記録しており、末期の日明貿易を知る上での貴重な史料となっている。
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