二度の大宛討伐
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/19 03:09 UTC 版)
やがて漢と大宛が国交を結び、武帝は大宛の汗血馬を愛好するようになった。武帝はある時、汗血馬が大宛の弐師城におかれていることを知ると、ほしくなったので、千金と金製の馬を持たせた使者を大宛に送り、千金と金製の馬で汗血馬を買おうとした。しかし、大宛は漢の足元を見て断ったため、武帝は怒り、李広利を弐師将軍に任命し、太初元年(前104年)、大宛討伐を行った。しかし、蝗害と飢餓で一つの城も落とすことができず、敦煌まで撤退した。これについて李広利は兵力が不十分だったので、もう一度遠征軍を出すことを請うたが、武帝は激怒し、李広利らを入国させなかった。 しかし、武帝は大宛討伐を諦めることができなかったので、太初3年(前102年)、一度目の遠征軍以上の軍備を整え、これ以上ないほどの大軍で、再び大宛討伐の遠征軍を編成し、李広利に託した。 大宛の軍は漢軍を迎え撃ったが、漢軍の方が優勢だったので、籠城することにした。李広利は城の水源を絶ち、40日余りも包囲した末、外城を破壊し、大宛勇将の煎靡を捕虜とした。 汗血馬を差し出すのを拒んだために、このような事態になったので、大宛貴族たちは相談して大宛王の毋寡を殺し、漢軍にその首と汗血馬を差し出し、停戦を申し込むことにした。李広利らはこれを承諾し、軍を引いた。大宛王が殺されたので、漢は大宛貴族であった昧蔡という者を新たな大宛王とした。しかしその後、大宛貴族たちは昧蔡を売国奴として殺害し、毋寡の弟の蝉封を大宛王に即位させ、その子を人質として漢に送った。
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