二度の応召と職業野球への復帰とは? わかりやすく解説

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二度の応召と職業野球への復帰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 21:13 UTC 版)

沢村栄治」の記事における「二度の応召と職業野球への復帰」の解説

しかし、徴兵によって甲種合格現役兵として、1938年1月10日帝国陸軍歩兵第33連隊三重県一志郡久居町)に入営する同年から職業野球選手の中で兵役逃れるために、私立大学夜間部在籍を置く制度ができるようになるが、沢村1年違いでこの制度使用することができなかった。入営後まもなく、軽機関銃射手として日中戦争支那事変)に出征4月3日広島発って6日には青島に到し、のち武漢作戦襄東会戦加わった中国戦線では、前線では連帯宣伝材料として手榴弾投げ大会頻繁に駆り出され、重い手榴弾多投させられたことから生命線である右肩痛める。また戦闘では左手貫通銃創負い、さらにマラリアにも感染した1939年8月歩兵第33連隊内地帰還1940年初春には野球好き賀陽宮恒憲王が第33連隊検閲のために訪問したが、沢村賀陽宮から直接沢村君、肩はどうだ?」と声をかけられている。それから1ヶ月たたない4月9日除隊となって宇治山田実家に戻ると、読売新聞は「沢村帰る」との記事載せた沢村巨人復帰するが、監督藤本沢村コンディション調整優先し、春のリーグ戦には起用しようとしなかった。そのため、沢村投球見たい希望するファンの声は高まり登板促す投書読売新聞紙上にも掲載されるほどであった6月から始まった夏季リーグからようやく沢村起用され6月4日の対南海軍戦で復帰初登板を完投勝利で飾ると、4回目登板となった7月6日の対名古屋軍戦で自身3度目ノーヒットノーラン達成する。しかし、復帰後はマラリア発作による高熱何度球場倒れたり兵役右肩痛めたことで速球投げられなくなっていた。そこで、抜群制球力新しく覚えたシュートなど変化球主体コーナー丹念に突く技巧派転向した同年シーズンでは7勝1敗 防御率2.59、翌1941年は9勝5敗 防御率2.05(リーグ15位)と、両年ともスタルヒン中尾輝三に次ぐ第三投手であった当時巨人エース同年38勝を挙げたスタルヒンであったが、沢村はかつて自分控え投手であったスタルヒンエース然として振る舞っていることに我慢できず、主将水原茂に「ボクまだまだ彼に負けませんよ。やつより速い球を投げて見せますと言ったこともあった。一方スタルヒンエースになって沢村話しかけることはなく、いつも沢村の前では小さくなっており、沢村自身も「スタ公」と呼んでいた。 兵役通じて往年の力は衰えたが、依然として沢村チーム内では一目置かれるスター選手であった1941年の春のキャンプ明石行われた際、宿舎選手一同浴衣姿記念写真撮ったが、後列で腕を組んで立つ沢村近寄り難かったらしく誰も隣に立とうとしなかった(結局誰にも物怖じしない吉原正喜立った)。一方で主力打者だった川上哲治千葉茂以下、選手皆が沢村に声をかけて欲しいと思っていたという。しかし、全然声はかからず捕手吉原正喜若手投手多田文久三などをかわいがっていた。球団沢村厚遇しており、給料巨人で最高の270であった。なお、主将水原茂230円、四番打者川上哲治210円ほどであったキャンプ宿舎相部屋普通だったところ、沢村のみ二階個室割り当てられていた。 1941年5月には、大阪貿易商一人娘沢村全盛期から熱心なファンであった米井良子(または酒井優)と、大阪大鳥神社結婚式挙げる格式重んじる井家中には職業野球選手である沢村との結婚に不満を残す者もいたため、参加者限られるなど貿易会社令嬢にとっては非常に質素なであった1941年10月応召により再び歩兵33連帯隊に戻り11月15日名古屋港から出征し12月12日フィリピンミンダナオ島到着この頃から日本太平洋戦争突入し沢村熱帯雨林の中でアメリカ兵囲まれたこともあったが、九死に一生得て帰還した1943年1月沢村三度巨人復帰するが、肩と肘の故障でもはやオーバースロー投げることができず、肩への負担少なサイドスロー転向した。しかし、既に制球力大幅に乱していたことで成績を残すことが出来ず、0勝4敗、防御率10.64に終わる。投手としては、7月6日の対阪神戦出場最後で、先発数するも3回で8与四死球と2被安打で5失点乱調早々に降板となった公式戦最後の出場は、10月24日の対阪神戦2-2迎えた延長11回表に6番・青田昇代打登場するが、三邪飛倒れた故障による衰えのため戦力にはならなかった一方で沢村持ち前明る性格若い選手兄貴分となり、主将としてチームまとめ役回って新人監督中島治康をよく助けた1943年シーズンが終わると、沢村妻の実家近くにある川西飛行場の製作工場職工として働いていた。しかし、1944年1月過ぎて巨人から次年度契約呼び出しが来ないため、上京して巨人球団事務所訪ねるが、そこで解雇通告を受ける。その後産業軍阪急軍から移籍の話もあり、沢村一時迷っていたが、鈴木惣太郎から「このまま最後まで巨人沢村で終わるべき」と諭され現役引退決める。鈴木他の仕事紹介しようとするが、「野球できないのなら、一生職工でいい」と断った2月11日大阪に戻ると、その後南海軍からも入団誘いがあったが、固辞している。職業野球通算成績6322敗、防御率1.74であった

※この「二度の応召と職業野球への復帰」の解説は、「沢村栄治」の解説の一部です。
「二度の応召と職業野球への復帰」を含む「沢村栄治」の記事については、「沢村栄治」の概要を参照ください。

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