二度の廃線問題と可部駅 - 河戸駅間電化計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 13:00 UTC 版)
「河戸駅」の記事における「二度の廃線問題と可部駅 - 河戸駅間電化計画」の解説
ウィキニュースに関連記事があります。JR可部線 廃線区間の一部を復活へ - 広島 可部線の廃止区間、一部復活決定 1984年(昭和59年)に当時の日本国有鉄道が、可部線の非電化区間の部分廃止の方針を示した時に、廃線の代償案として同時に可部駅 - 河戸駅間、1.3 kmの電化計画を示した。しかし、河戸以遠の可部線切り捨てを問題視する意見が多く、地元の猛反発にあい、またその当時は可部以北の並行道路の状態が悪く、部分廃止は棚上げになったため電化も行われなかった。 しかし、電化区間と非電化区間の境界点となる可部駅で、ほとんどの列車が系統分離されていく中で、1994年(平成6年)夏に、亀山地区(河戸駅周辺も亀山地区になる)の住民約6,000世帯により、『可部駅・河戸駅間電化促進期成同盟会』(以下「同盟会」と略)が結成された。1996年(平成8年)9月には「河戸地区まちづくり協議会」が旗揚げした。運動の看板は、造成された団地のデベロッパーが費用負担した。 その後、可部線を国鉄から引き継いだJR西日本が1998年(平成10年)9月に、可部駅 - 三段峡駅間の鉄道路線廃止・バス転換計画を発表した。 2000年(平成12年)10月にJR西日本が、2000年(平成12年)11月1日から2001年(平成13年)2月12日まで104日間の試験増便計画を発表した時は、同年末に、利用促進のために、同盟会が河戸駅周辺に40台収容の駐輪場を整備。整備前までは駐輪場のある可部駅を利用する住民も多かった。試験増便は、その後2001年(平成13年)4月1日から2002年(平成14年)3月31日までの1年間にも行われ、さまざな住民活動が行われたが、試験増便の結果は思わしくなく、利用実績はJR西日本の示すラインには及ばず2003年(平成15年)11月30日に営業終了となった。 一方で同じころ、可部駅 - 河戸駅間の電化運動も活発化した。可部線対策協議会は電化した場合、当時500人前後の輸送密度の可部線が100人以上の底上げが期待できるとされた。しかし、緑井駅 - 可部駅間の行き違い設備を含めて30億円から40億円かかる事、JR西日本が「自治体が費用を全額負担するのであれば存続させる」との方針を示していた事、電化論は河戸駅 - 三段峡駅間の切り捨てになるとの意見に押され全線存続論が主流となっていたことから、2003年(平成15年)の可部線の部分廃線までには実現しなかった。 なお、在来線の改良工事は、既に実施された山陰本線・津山線・因美線などの場合でも地元負担が発生している。
※この「二度の廃線問題と可部駅 - 河戸駅間電化計画」の解説は、「河戸駅」の解説の一部です。
「二度の廃線問題と可部駅 - 河戸駅間電化計画」を含む「河戸駅」の記事については、「河戸駅」の概要を参照ください。
- 二度の廃線問題と可部駅 - 河戸駅間電化計画のページへのリンク