二度の決闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/03 07:26 UTC 版)
「チャールズ・レノックス (第4代リッチモンド公爵)」の記事における「二度の決闘」の解説
彼が佐官時代の1788年夏ごろは、時の国王ジョージ3世が健康状態を悪化させて錯乱状態に陥ったことから、摂政法改正が論争となっていた。チャールズはその議論の際に、不行跡著しいプリンス・オブ・ウェールズを徹底的に批判したため、その王弟ヨーク・オールバニ公フレデリックから決闘を挑まれて、1789年5月にウィンブルドンで決闘に及んだ。チャールズの放った弾丸は公爵の髪をかすめたが、ヨーク公は空砲を撃って最早敵意のないことを示したことで両者ともに怪我なく終結している。この余波を受けて、彼はヨーク公が長を務める近衛連隊から第35歩兵連隊(英語版)付中佐へと転出となった。 同年7月には、詩人セオフィラス・スイフト(英語版)に自身を非難する手記を発表されたため、スイフトとも決闘に及んでいるその結果、スイフトは負傷したが致命傷ではなかったという。 同年9月にゴードン公爵家令嬢シャーロットと結婚、これがきっかけで彼の孫の代(第6代リッチモンド公爵)に同家の莫大な財産がもたらされることとなる。1795年に大佐に昇進するとともに国王付侍従武官に就任して1798年までその職にあった。翌年にはサセックス選挙区からトーリー党所属の庶民院議員に立候補して当選、自身が公位を継承する1806年まで同職を務めている。なお、議員在職中に中将に昇進している。
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