佐官時代
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「ジェームズ・マティス」の記事における「佐官時代」の解説
少佐に進級したマティスはオレゴン州ポートランドにある新兵募集基地で新兵募集任務に従事した。中佐に進級して、第1海兵大隊長に就任。湾岸戦争において、同大隊は「砂漠の盾作戦」決行にあたって組織されたタスクフォースの1つ、「リッパー」(Task Force Ripper)の構成部隊の1つとなり、マティスも大隊長の1人としてタスクフォース・リッパーの指揮に関わった。その後大佐に進級し、第7海兵連隊長となった。
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佐官時代
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大正2年(1913年)に初めて赤煉瓦勤務となり、軍令部参謀・教育本部第2部員を兼任した。大正4年(1915年)から2年間、アメリカに駐在する。ここでアメリカの国情を詳細にわたって研究し、日露戦争後にアメリカを仮想敵と定めた海軍の方針が無謀なものであることを悟り、対米協調路線を推進する決意を固めた。しかし、帰国して海軍大学校教官に任じられ、2年間にわたって学生に対米協調の重要性を説き続けたが、血気盛んな学生は「百武教官は恐米論者」と反発を強め、受け入れられなかった。 大佐に昇進した百武は、大正10年(1921年)に「多摩」艦長に任じられ、初めて艦長職に就いた。イギリスのエドワード王太子の訪日に際し、御召艦「レナウン」に同伴の任にあたり、また下関に停泊中に運炭船が「多摩」に激突沈没した事故の責任を問われて軍法会議にかけられている。この事故は難路で知られた関門海峡を通過するため、予め航路の帆船清掃を依頼したにもかかわらず、停泊している多摩に潮流に流された船が衝突したものであった。判決は罰金300円。「多摩」艦長時代は百武にとって激動の時期であり、感激のあまり任期中に生まれた七女に「多摩」と命名した。だが一方、直属の上司である第3戦隊司令官に、実の兄である三郎少将が着任して窮屈な思いもしている。以後、兄弟が同じ指揮系統に並ばないよう人事上の配慮が強化されることになる。 その後「春日」艦長・教育局第1課長・軍令部参謀を務めている。
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