二度の財政危機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 14:54 UTC 版)
ユーロダラーの主要な保有者がすっかり交代したので、運用しているユーロバンクの勢力図も変わってしまった(セカンダリー・バンキング危機)。ソ連は債務国に転落した。経済と軍事をめぐり、フランスとアメリカに対する外交で何度も譲歩しなければならなくなった。ペレストロイカを敢行するほど、ソ連経済は追い詰められていったのである。 ゴスバンクの預金業務は拡大してゆき、1988年にゴスバンクが中央と5つの専門銀行に分化した。現在のVTBとかズベルバンクはゴスバンク由来の専門銀行であった。銀行業の自由化により現金だけが数年で普及してゆき、多くの小売店で深刻な商品不足が続いた。ゴスバンクの預金業務は1991年に民営化されてズベルバンクとなった。76の地銀が出資するジョイント・ストック・カンパニーとなったのである。この地銀は帝政時代のズベル金庫と関係がなく、自由化のとき雨後の筍のように設立されたものである。1992年に価格統制が解かれてインフレがおこった。ズベルバンクは同年初めに預金封鎖を実施した。1993年にズベルバンク会長が交代した(from Pavel Zhikarev to Oleg Yashin)。1993年までにロシア連邦中央銀行がズベルバンクの支配権を握った。財務省は完全支配をめざした。膨大なゼロクーポン債(GKO)を消化させていたからである。1995年までにズベルバンクのロシア預金業務におけるシェアは60%くらいに落ち込んでいた。銀行間取引市場が麻痺したときに預金が戻ってきて、シェアを70%超まで回復した。麻痺の背景には設備更新があった。1994年ズベルバンクがヒューレット・パッカードとユニシスに全支店のコンピュータ化と本店のクリアリングを委託した。そして新しい本部をモスクワの真ん中に建てはじめた。1995年初頭に元副財務大臣のアンドレイ・カズミン(Andrei Kazmin)がズベルバンクの新会長となった。彼はGKOビジネスの収益を裏づけとして拡大路線を打ち出した。1997年に海外の機関投資家がズベルバンクへ資本参加した。ズベルバンクはルーブル建てGKOをドル建てユーロ債に替えることのできる特権銀行であったので、翌1998年ロシア財政危機が起きたときに深手を負わずにすんだ。
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