二度の戦傷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/19 05:06 UTC 版)
明治37年2月10日に日露開戦の詔勅が下る。西久保も連隊副官として従軍が決まり、同16日出発する。2月18日に長崎より乗船し同22日韓国・仁川に到着、京城に至る。3月高陽・開城・金川・瑞興・鳳山・黄州を経て平壌に着き、4月には安州・嘉山・定州に前進する。4月29日義州上流より鴨緑江を徒渉し石城より大楼房に敵を追撃、蛤蟆塔の辺りで遂に撃退する。6月より先進部隊となり太子山に進み、崔家房を占領する。7月18日細川沿橋頭の戦闘では伝令を務めたが、この時榴霰弾の破裂によって臀部及び脚部を負傷、内地後送される。8月16日小倉北方予備病院に入院治療、9月9日には少癒退院し歩兵第46連隊附を命ぜられ、大村に向かう。9月12日、少佐に進級し後備歩兵第29連隊大隊長を仰せ付けられると再び戦地へ向い、10月5日ダルニーを経て遼陽付近に屯在の部隊に合流する。指揮官として前線に立った西久保は10月13日焼達連勾東方高地を占領、10月26日には歪頭山南部高地に突撃する。しかし、この戦闘に於いて頭部に重傷を負い再び内地後送される。
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