二度の大命降下と組閣とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 二度の大命降下と組閣の意味・解説 

二度の大命降下と組閣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:43 UTC 版)

加藤高明内閣」の記事における「二度の大命降下と組閣」の解説

1925年7月31日加藤内閣政友会連立離脱によって閣内不一致をきたし、総辞職する同日の内に、連立離脱した政友会と、野党時代分裂した政友本党幹部会合して、提携宣言する憲政会上回る衆議院第一勢力となって次期政権奪取狙ったのは明らかであった。 しかし、首相奏請の人を担っていた西園寺元老は、政本両党による政変認めず再度加藤首相大命降下加藤内閣憲政会単独内閣となって存続するこの頃唯一の元老となっていた西園寺は、自身最後に首相奏請を持つ元老制度廃して民意支持得た公党党首自動的に首相となる、首相選任自立化目指すうになる憲政の常道)。今回政変は、政党内閣護憲三派によって復活してから最初のものであり、議席数いかんでは政本両党の連立比較第一党になる可能性もあったが、西園寺元老は、加藤首相再度奏請民意選挙の結果)に基づかない多数派工作に基づく政権交代認めなかった。 加藤内閣一次か、二次か? 加藤護憲三派内閣組織した際と、憲政会単独内閣組織した際の2度わたって摂政宮裕仁親王から組閣の大命拝している。この2度目大命降下があった時点第1次加藤高明内閣は一旦総辞職したものと見なして、同日以後第2次加藤高明内閣とする見方かつては支配的だったが、現在の内閣府の公式見解では、この日以後をむしろ改造内閣考え加藤高明内閣は1内閣だったとしている。 現行の日本国憲法下では全閣僚連帯して責任を負う内閣総辞職」が一つ内閣区切りとなるが、旧憲法下では慣例として内閣総理大臣が全閣僚辞表取りまとめ参内し天皇にこれを奉呈するという形式とっていた。しかし政局如何によってはこうした辞表受理されずに差し戻されその結果内閣存続することが稀にあった。加藤高明内閣は、大連立与党護憲三派体制崩壊したことにより加藤が全閣僚辞表取りまとめてこれを奉呈当初後継首班について検討もされたが、結局加藤大命が再降下することになった。ただしその際奉呈されていた辞表はすべて差し戻されており、この事実をもって加藤高明内閣存続したとみなすのがこの内閣府の公式見解である。 これと対比されるのが、後年第2次近衛内閣である。この件では、総理近衛松岡洋右外相更迭ようとしたが、表立って松岡辞任要請する強硬な松岡逆にこれを拒否して閣内不一致理由倒閣図りかねない状況にあったため、近衛は一旦全閣僚辞表取りまとめ奉呈したのち、改め大命降下をうけ松岡抜き第3次近衛内閣発足させている。この時には辞表差し戻しがなく、そのために松岡更迭前後それぞれ別個の一内閣とみなされており、この点が加藤高明内閣場合異なっている。

※この「二度の大命降下と組閣」の解説は、「加藤高明内閣」の解説の一部です。
「二度の大命降下と組閣」を含む「加藤高明内閣」の記事については、「加藤高明内閣」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「二度の大命降下と組閣」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「二度の大命降下と組閣」の関連用語

二度の大命降下と組閣のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



二度の大命降下と組閣のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの加藤高明内閣 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS