二度の大命降下と組閣
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「加藤高明内閣」の記事における「二度の大命降下と組閣」の解説
1925年7月31日、加藤内閣は政友会の連立離脱によって閣内不一致をきたし、総辞職する。同日の内に、連立を離脱した政友会と、野党時代に分裂した政友本党の幹部が会合して、提携を宣言する。憲政会を上回る衆議院第一勢力となって、次期政権の奪取を狙ったのは明らかであった。 しかし、首相奏請の人を担っていた西園寺元老は、政本両党による政変を認めず、再度加藤首相に大命降下、加藤内閣は憲政会単独内閣となって存続する。この頃、唯一の元老となっていた西園寺は、自身を最後に首相奏請権を持つ元老の制度を廃して、民意の支持を得た公党の党首が自動的に首相となる、首相選任の自立化を目指すようになる(憲政の常道)。今回の政変は、政党内閣が護憲三派によって復活してから最初のものであり、議席数いかんでは政本両党の連立が比較第一党になる可能性もあったが、西園寺元老は、加藤首相を再度奏請、民意(選挙の結果)に基づかない多数派工作に基づく政権交代を認めなかった。 加藤内閣は一次か、二次か? 加藤は護憲三派内閣を組織した際と、憲政会単独内閣を組織した際の2度にわたって、摂政宮裕仁親王から組閣の大命を拝している。この2度目の大命降下があった時点で第1次加藤高明内閣は一旦総辞職したものと見なして、同日以後を第2次加藤高明内閣とする見方がかつては支配的だったが、現在の内閣府の公式見解では、この日以後をむしろ改造内閣と考え、加藤高明内閣は1内閣だったとしている。 現行の日本国憲法下では全閣僚が連帯して責任を負う「内閣総辞職」が一つの内閣の区切りとなるが、旧憲法下では慣例として内閣総理大臣が全閣僚の辞表を取りまとめて参内し天皇にこれを奉呈するという形式をとっていた。しかし政局如何によってはこうした辞表が受理されずに差し戻され、その結果内閣が存続することが稀にあった。加藤高明内閣は、大連立与党の護憲三派体制が崩壊したことにより加藤が全閣僚の辞表を取りまとめてこれを奉呈、当初は後継首班について検討もされたが、結局加藤に大命が再降下することになった。ただしその際、奉呈されていた辞表はすべて差し戻されており、この事実をもって加藤高明内閣は存続したとみなすのがこの内閣府の公式見解である。 これと対比されるのが、後年の第2次近衛内閣である。この件では、総理の近衛が松岡洋右外相を更迭しようとしたが、表立って松岡に辞任を要請すると強硬な松岡は逆にこれを拒否して閣内不一致を理由に倒閣を図りかねない状況にあったため、近衛は一旦全閣僚の辞表を取りまとめて奉呈したのち、改めて大命再降下をうけ松岡抜きの第3次近衛内閣を発足させている。この時には辞表の差し戻しがなく、そのために松岡の更迭の前後がそれぞれ別個の一内閣とみなされており、この点が加藤高明内閣の場合と異なっている。
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