二度の世界大戦と植民地戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 01:37 UTC 版)
「フランス」の記事における「二度の世界大戦と植民地戦争」の解説
フランスは第一次世界大戦と第二次世界大戦の主戦場となっている。第一次世界大戦ではドイツ帝国を中心とする中央同盟国と戦い、140万人が犠牲となっており、このときは領土の一部が占領されただけにもかかわらず、全土を占領された第二次世界大戦よりも多くの犠牲を出した。 1939年9月に始まった第二次世界大戦では、1940年にドイツの電撃戦に敗北して第三共和政は崩壊し、フィリップ・ペタンを国家元首とするヴィシー政権が成立した。フランス本国はドイツによって北部、のちに全土が占領された。一方でシャルル・ド・ゴール率いる自由フランスは連合国につき、1944年にフランス共和国臨時政府が帰還し、全土を奪還した。 戦後、1946年にフランス第四共和政が成立した。フランスは冷戦構造のなかで自由主義陣営(西側)に属し、北大西洋条約機構の原加盟国となる一方、1951年に欧州石炭鉄鋼共同体を西ドイツやイタリア、ベネルクス三国と結成し、1957年には欧州経済共同体が結成されるなどヨーロッパ諸国との協調姿勢を取った。一方で植民地帝国は崩壊しつつあった。インドシナの支配権を回復するため臨んだ第一次インドシナ戦争では、1954年にディエンビエンフーの戦いでベトミンに大敗を喫し、同年7月にはジュネーブ休戦協定によってインドシナからの撤退を余儀なくされた。さらにアルジェリア戦争が泥沼化し、アルジェリア植民地の維持の是非と、植民者の帰還 をめぐって国論が割れ、内戦になりかけた。これを収拾するため、1958年、ド・ゴールが首相に就任し、1959年には強力な大統領権限を含んだ第五共和政が成立した。 第五共和政の初代大統領となったド・ゴールは、国内の統一を維持しながら戦争終結へ踏み出した。1958年10月2日のギニア独立を嚆矢として、アフリカの年こと1960年にほぼすべてのアフリカ植民地が独立した。1962年にアルジェリア戦争の和平交渉を妥結し、アルジェリアは独立した。外交面では、ド・ゴールはヨーロッパの自主性を主張してアメリカと距離を置いた独自路線をとった。その米ソと並ぶ第三極を目指した政治姿勢はド・ゴール主義と呼ばれ、核兵器保有もその一環である。1960年にはトゥアレグが居住するサハラ砂漠で核実験を強行した。1966年、フランスは北大西洋条約機構(NATO)を正式脱退した。2009年、フランスは北大西洋条約機構(NATO)に再加盟し、NATO全体では英語とフランス語が公用語となっている。
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