二度のドイツ赴任とは? わかりやすく解説

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二度のドイツ赴任

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 05:13 UTC 版)

東郷茂徳」の記事における「二度のドイツ赴任」の解説

1908年7月東京帝大文科大学独文科卒業病気療養理由休学したため卒業まで通常より1年多く要し卒業時は小宮豊隆同期であったが、東郷後年会った際に小宮知らなかったという。卒業に際して母校七高から来たドイツ語教授招聘の話を断り明治大学ドイツ語講師務めたりしたのち、1912年大正元年)に外交官及領事官試験3度目受験合格し外務省入省した。同期天羽英二(元内閣情報局総裁)。 1919年大正8年) - 1921年大正10年)に対独使節団一員としてベルリン東郷赴任した。このときドイツは、第一次世界大戦敗戦後成立したワイマール共和国下での、カップ一揆勃発するなどの混乱期にあったが、日独関係比較安定した状態にあったまた、東郷はこの赴任時にユダヤ系ドイツ人エディ・ド・ラロンド(建築家ゲオルグ・デ・ラランデ未亡人旧姓ピチュケ Pitsschke)と出会い恋仲となる。ドイツから帰国後、反対する両親説得して1922年帝国ホテル挙式した。 1937年昭和12年) - 1938年昭和13年)に駐独大使となったが、この際にはナチス勃興しており、状況一変していた。対外的にはオーストリアチェコスロバキアなどへ侵攻しつつある状態にあり、ドイツ国内的にはベルリンシナゴーグナチスによって焼き討ちされるなど、ユダヤ人迫害顕在化しつつあった。元々ドイツ文学傾倒しドイツ文化に深い理解があった東郷ナチスへの嫌悪感じざるを得ずナチス手を結びたい陸軍意向受けていたベルリン駐在陸軍武官大島浩や、日本手を結びたいナチス外交担当ヨアヒム・フォン・リッベントロップ対立し駐独大使罷免される

※この「二度のドイツ赴任」の解説は、「東郷茂徳」の解説の一部です。
「二度のドイツ赴任」を含む「東郷茂徳」の記事については、「東郷茂徳」の概要を参照ください。

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