二度の傷害事件に居合わせる
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/05 19:03 UTC 版)
「畠山義寧」の記事における「二度の傷害事件に居合わせる」の解説
親戚である米沢藩上杉家の江戸藩邸にしばしば出入りしている。元禄15年(1702年)12月15日、赤穂事件が起きた際、実父を殺害した赤穂浪士たちに対して追討軍の派遣を企図した上杉綱憲を諌止している。しかし、創作上(小説や映画、ドラマなど)においては史実と異なりその役割は、上杉家の家老だった千坂高房や色部安長に変更されてしまっていることが多い。 そもそも事件の発端となった江戸城中での傷害事件の当時、指南役だった高家肝煎の吉良義央の補佐を高家・品川伊氏と共に担当しており、江戸城松の廊下おいて赤穂藩主浅野長矩が、吉良に斬りつけた際に現場に居合わせ、同役の品川と共に負傷した吉良を運んだと記録されている資料が残る。創作上(「仮名手本忠臣蔵」など)においても、吉良の後ろに控える高家二人のうちの一人として描かれることがある。 宝永6年(1709年)1月15日、前将軍徳川綱吉の葬儀に際し、吉良に代わり高家肝煎となった品川と共に再び勅使御馳走役への指南役となるが、赤穂事件の二の舞を避けるためか、饗応役筆頭の大和国柳本藩主織田秀親に同役への指導権限を委譲した。織田は名誉な事と張り切り、同役の大聖寺新田藩主前田利昌に厳しく当たり、老中の奉書を利昌に回覧させない等という嫌がらせを行なった。織田と前田は先祖が主従関係であり、主筋を自認する織田と前田は以前から仲が悪かった。翌日の2月16日、綱吉の法会が行われた寛永寺で、前田は織田を刺殺した。義寧は高家肝煎として法会にも出席しており、生涯で二度も大事件の現場に居合わせたことになる。
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