二度の世界大戦とアドルフ・ヒトラー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 07:39 UTC 版)
「ウィーンの歴史」の記事における「二度の世界大戦とアドルフ・ヒトラー」の解説
詳細は「赤いウィーン」、「2月内乱」、および「アンシュルス」を参照 1914年に始まった第一次世界大戦は、ドイツ帝国および同国と同盟を結んだオーストリア・ハンガリー帝国の1918年の敗北によって終わった。ウィーンのハプスブルク家支配は革命によって終焉し、二重帝国は解体されてチェコスロバキア、ハンガリー、ユーゴスラビア、ポーランドなどが次々と独立、ヨーロッパ4大都市のひとつであったウィーンは経済的困窮に追い込まれた。新生オーストリア(第一共和国)の首都となったウィーンではオーストリア社会民主党による市政が成立し、保守的な地方の農村部からは「赤いウィーン」と呼ばれて、両派の政治的確執は国政全体を揺るがす不安定要因ともなっていった。こうした時代をウィーンで過ごした若き画学生ヒトラーは、ルエーガーやシェーネラーなどの影響を受けてドイツ民族至上主義に心酔、反ユダヤ主義に傾倒した。かれは1924年『我が闘争』を著し、多民族都市ウィーンとそこでのユダヤ人をはじめとする諸民族の混交ぶりを憎悪している。 反ユダヤ主義・ナチズムそしてシオニズムという相反する方向からの民族主義を生んだウィーンであったが、のちに国家を越えた共生への道を探り、欧州統合へと向かう動きが生まれたのもウィーンであった。1894年生まれのリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーは、在日オーストリア代理公使の父ハインリヒと日本人の母青山ミツとのあいだに東京で生まれた。ウィーン大学で哲学を学んだかれは、1926年に『汎ヨーロッパ主義』を著し、同年はやくもウィーンで第1回パン・ヨーロッパ会議がひらかれている。26ヵ国の代表がおこなった決議には「ヨーロッパの連帯。これは共通通貨、均等関税、水路の共用、軍事と外交政策の統一を基礎とする」の条項があり、これはまさに第二次世界大戦後のヨーロッパ共同体(EC)とこんにちの欧州連合(EU)構想のさきがけとなった。 オーストリアの政界や社会では、左派のオーストリア社会民主党と右派のキリスト教社会党との対立が泥沼状態に陥った。一方で、『我が闘争』を著したヒトラーはドイツで国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の党勢を拡大し、オーストリアにもナチスへ共鳴する動きが生まれ、オーストリアのドイツへの合流を求める動きが広がった。世界恐慌後に首相となったエンゲルベルト・ドルフースは独裁体制を打ち立て、オーストリア共産党やオーストリア・ナチスなどの政党を禁止した。1934年には社会民主党の活動禁止を巡って2月内乱という武装蜂起が起き、社会民主党の牙城だったウィーンも市街戦の舞台となった。 オーストロファシズムを掲げるオーストリアの独裁政権はナチス・ドイツへの併合を拒んだが、ヒトラー政権はオーストリアへの圧力を高め、ついに母国オーストリアをドイツに併合した。これが1938年のアンシュルスである。ウィーンは約7世紀ぶりに首都の座を降り、ドイツ第三帝国のなかの一地方都市に転落した。ただし、ウィーン市には通例地方の区分である帝国大管区の行政区分が適用され、グロース・ウィーン帝国大管区(de:Groß-Wien)として扱われた。また中東欧諸国の国境裁定であるウィーン裁定などの外交の舞台となった。 アンシュルス以降のウィーンでは、反ユダヤ主義が猛威をふるった。ユダヤ人は男女を問わず暴行され、かれらの事業所・商店、シナゴーグは破壊された。多くのユダヤ人たちは亡命したが、エゴン・フリーデルのようにアンシュルスに抗して自殺したウィーン人もいた。 第二次世界大戦においては連合国軍の空襲標的となり、大きな被害を受けた(第二次世界大戦におけるウィーン空襲(英語版))。末期の1945年4月2日、赤軍によるウィーン攻勢が開始された。激しい市街戦によって多くの損害が出たが、4月13日に赤軍によって占領された。元首相カール・レンナーはオーストリア臨時政府を樹立し、4月27日にドイツからの分離を宣言した(オーストリア独立宣言(ドイツ語版))。
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