ハプスブルク家支配とは? わかりやすく解説

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ハプスブルク家支配

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 03:54 UTC 版)

ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「ハプスブルク家支配」の解説

詳細は「ネーデルラント17州」を参照 1506年マクシミリアンマリーの子フランドル育ったフィリップ端麗公が急死すると、その長子でわずか6歳シャルル(のちのカール5世)が低地地方相続し1515年1月全国議会即位した。さらにシャルル1516年にはカスティリャ・アラゴン両王国君主となり、新世界勢力拡大し続けスペインの国王カルロス1世となった。これにより、低地地方スペイン領となった1519年祖父マクシミリアン1世死去すると、シャルルフッガー家財力背景対抗馬フランス王フランソワ1世皇帝選挙破りドイツ皇帝として登位した神聖ローマ皇帝カール5世)。こうして東はトランシルヴァニアから西はスペインに至る、ヨーロッパ全体包含するのような帝国」が形成されたが、この「ハプスブルク帝国」には一体的国家組織がなく、個別国家単純にカール5世個人のもとで集約されているに過ぎなかった。カール対フランスとの緊張関係を通じてこれをまとめようとし、低地地方は「帝国」にとって辺境位置にあるにもかかわらず対フランス軍事的政治的拠点であるうえ、アントウェルペンアントワープ)の金融は「帝国」の重要な財源であったカール低地地方行政的中心ブリュッセルに置き、中央集権化進めて低地地方政治的統一促進させる一方周辺地域武力的制圧進めメルセン条約以来分断されていたこの地を初め統一した低地地方17州と呼ばれるのは、このカール5世帯びた低地地方17称号由来し1548年アウクスブルク帝国議会正式に承認された。1549年には低地地方が「永久に不可分」な形でハプスブルク家継承されることを定めた国事詔書(プラグマティック・サンクシオン)が発布され全国議会承認された。 低地地方は、共同生活兄弟会(上述発祥地だけあって宗教改革気運高くルター派活動して急進的な再洗礼派運動広がりをみせていたことから、カールはこれに激し弾圧加えた1540年以降再洗礼派活動沈静化すると、代わって人びとの心をとらえたのはカルヴァン派であった。特にフランス国境に近いエノートゥールネリルなどの各地流入し当初再洗礼派混同されていたが、他宗派にはみられない強固な教会組織のほか、職業への精勤奨励して蓄財認め教義16世紀における商工業発展調和的であり、都市の手工業者に広がってアントウェルペンはその最大拠点となったアウクスブルクの和議経た1556年カール5世退位し神聖ローマ皇帝位を弟のフェルナンドフェルディナント1世)、スペイン王位を長子フェリペフェリペ2世)に譲りハプスブルク家スペイン・ハプスブルク家オーストリア・ハプスブルク家分かれたカール5世続いて低地地方支配したフェリペカール5世基本路線継承し法典裁判制度統一図って低地地方中央集権化しようと試みたが、低地地方政治実権はグランヴェルなどの寵臣握っており、オラニエ=ナッサウ家などの大貴族対立したフェリペ低地地方での支配権強化するために低地地方での教区再編計画し1559年7月には教皇パウルス4世から許可得た。これにより、低地地方にはカンブレ・メヘレン・ユトレヒトの3大司教区新設され、これらの司教区司教には従来王権のもとで異端審問関与していた神学者多数登用されたほか、低地地方プロテスタント弾圧有名なアントワーヌ・ド・グランヴェルメヘレン大司教となっている。当時フランスからは多数改革派流入し続けており、宗教的緊張高まって低地地方不穏な空気流れ始めた1565年フェリペ改め低地地方での異端審問強化命令する下級貴族反発強め1566年には異端審問中止求め訴状執政全州総督)に任じた異母姉マルハレータに提出した執政マルハレータは異端審問一時緩和発表したが、これによって改革派公然と低地地方活動開始する至った1566年にはフランドルカトリック教会修道院狙った暴動発生し、その反乱低地地方各地広まったフェリペ重税などの圧政行っていたため、まだプロテスタント浸透していない北部にまで拡大したこの暴動一見宗教的動機隠されてはいたが、実はそのうち深刻な経済的理由存在しており、これは改革派それほど浸透していない低地地方北部でも暴動起こっていたことからも、明らかである。この年北欧での大規模な戦争北方七年戦争)によってバルト海方面からの穀物流入激減し食糧難経済危機によって低地地方人々苦しんでいたことから、1567年8月にはフェリペ事態の収拾を図るため、フェルナンド・アルバレス・デ・トレドアルバ公)に指揮権与えて軍隊による介入指示し1万ほどの軍勢とともに派遣したアルバ公は「騒擾評議会」なる特別法廷設置して暴動参加者徹底的に弾圧したうえで同年12月にはマルハレータに替わって執政となり、ネーデルラント貴族にこの暴動責任を問うた。

※この「ハプスブルク家支配」の解説は、「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の解説の一部です。
「ハプスブルク家支配」を含む「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事については、「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の概要を参照ください。

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