ハプスブルク家支配
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「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「ハプスブルク家支配」の解説
詳細は「ネーデルラント17州」を参照 1506年、マクシミリアンとマリーの子でフランドルで育ったフィリップ端麗公が急死すると、その長子でわずか6歳のシャルル(のちのカール5世)が低地地方を相続し、1515年1月に全国議会で即位した。さらにシャルルは1516年にはカスティリャ・アラゴン両王国の君主となり、新世界に勢力を拡大し続けるスペインの国王カルロス1世となった。これにより、低地地方はスペイン領となった。1519年、祖父マクシミリアン1世が死去すると、シャルルはフッガー家の財力を背景に対抗馬のフランス王フランソワ1世を皇帝選挙で破り、ドイツ皇帝として登位した(神聖ローマ皇帝カール5世)。こうして東はトランシルヴァニアから西はスペインに至る、ヨーロッパ全体を包含するかのような「帝国」が形成されたが、この「ハプスブルク帝国」には一体的な国家組織がなく、個別の国家が単純にカール5世個人のもとで集約されているに過ぎなかった。カールは対フランスとの緊張関係を通じてこれをまとめようとし、低地地方は「帝国」にとって辺境の位置にあるにもかかわらず、対フランスの軍事的・政治的拠点であるうえ、アントウェルペン(アントワープ)の金融は「帝国」の重要な財源であった。カールは低地地方の行政的中心をブリュッセルに置き、中央集権化を進めて低地地方の政治的統一を促進させる一方、周辺地域の武力的制圧を進め、メルセン条約以来分断されていたこの地を初めて統一した。低地地方が17州と呼ばれるのは、このカール5世が帯びた低地地方の17の称号に由来し、1548年のアウクスブルク帝国議会で正式に承認された。1549年には低地地方が「永久に不可分」な形でハプスブルク家に継承されることを定めた国事詔書(プラグマティック・サンクシオン)が発布され、全国議会で承認された。 低地地方は、共同生活兄弟会(上述)発祥地だけあって宗教改革の気運も高く、ルター派が活動して急進的な再洗礼派の運動も広がりをみせていたことから、カールはこれに激しい弾圧を加えた。1540年以降に再洗礼派の活動が沈静化すると、代わって人びとの心をとらえたのはカルヴァン派であった。特にフランス国境に近いエノー、トゥールネ、リルなどの各地に流入し、当初は再洗礼派と混同されていたが、他宗派にはみられない強固な教会組織のほか、職業への精勤を奨励して蓄財を認める教義は16世紀における商工業の発展と調和的であり、都市の手工業者に広がってアントウェルペンはその最大の拠点となった。 アウクスブルクの和議を経た1556年、カール5世は退位して神聖ローマ皇帝位を弟のフェルナンド(フェルディナント1世)、スペイン王位を長子のフェリペ(フェリペ2世)に譲り、ハプスブルク家はスペイン・ハプスブルク家とオーストリア・ハプスブルク家に分かれた。カール5世に続いて低地地方を支配したフェリペもカール5世の基本路線を継承し、法典や裁判制度の統一を図って低地地方を中央集権化しようと試みたが、低地地方の政治の実権はグランヴェルなどの寵臣が握っており、オラニエ=ナッサウ家などの大貴族と対立した。フェリペは低地地方での支配権を強化するために低地地方での教区再編を計画し、1559年7月には教皇パウルス4世から許可を得た。これにより、低地地方にはカンブレ・メヘレン・ユトレヒトの3大司教区が新設され、これらの司教区の司教には従来王権のもとで異端審問に関与していた神学者が多数登用されたほか、低地地方のプロテスタント弾圧で有名なアントワーヌ・ド・グランヴェルもメヘレン大司教となっている。当時、フランスからは多数の改革派が流入し続けており、宗教的緊張が高まって低地地方に不穏な空気が流れ始めた。 1565年にフェリペが改めて低地地方での異端審問の強化を命令すると下級貴族は反発を強め、1566年には異端審問の中止を求める訴状を執政(全州総督)に任じた異母姉マルハレータに提出した。執政マルハレータは異端審問の一時緩和を発表したが、これによって改革派が公然と低地地方で活動を開始するに至った。 1566年にはフランドルでカトリック教会や修道院を狙った暴動が発生し、その反乱は低地地方各地へ広まった。フェリペが重税などの圧政を行っていたため、まだプロテスタントが浸透していない北部にまで拡大したこの暴動は一見宗教的動機に隠されてはいたが、実はそのうちに深刻な経済的理由が存在しており、これは改革派がそれほど浸透していない低地地方北部でも暴動が起こっていたことからも、明らかである。この年は北欧での大規模な戦争(北方七年戦争)によってバルト海方面からの穀物流入が激減し、食糧難と経済危機によって低地地方の人々が苦しんでいたことから、1567年8月にはフェリペが事態の収拾を図るため、フェルナンド・アルバレス・デ・トレド(アルバ公)に指揮権を与えて軍隊による介入を指示し、1万ほどの軍勢とともに派遣した。アルバ公は「騒擾評議会」なる特別法廷を設置して暴動の参加者を徹底的に弾圧したうえで同年12月にはマルハレータに替わって執政となり、ネーデルラント貴族にこの暴動の責任を問うた。
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