ハプスブルク時代
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「ルクセンブルクの歴史」の記事における「ハプスブルク時代」の解説
さらにフィリップの息子シャルル(カール5世)はこれらを受け継いだ上で1520年、神聖ローマ皇帝に選出されるが、ルクセンブルクは広大なハプスブルク領の一翼を担っていた。シャルルが神聖ローマ皇帝に即位した後の1542年、以前より対立していたフランスがルクセンブルクへ攻撃を仕掛けたが、これは撃退した。しかし翌1543年、再度フランス軍が攻撃を仕掛けた際にルクセンブルクは持ちこたえられず、フランス王フランソワ1世が入城する事態に至った。カール5世は1544年にはルクセンブルクの奪取に成功した。これらの戦いが発生したことから、ルクセンブルクはハプスブルク家におけるネーデルラント防衛の最前線と化し、フランス王国(ヴァロワ朝、ブルボン朝)の進出に備えて要塞化された。カール5世は1556年に退位するが、その際に広大な領土を二分割、ルクセンブルクを含むネーデルラント17州とスペインは息子フェリペ2世に受け継がれた。そして、 それまでの各統治者らは、ルクセンブルクを含むネーデルラントが諸公国の集合体であったことからその権利と習慣を尊重してきたが、フェリペ2世はネーデルラントの統治において伝統や自治を無視し、中央集権化を図って絶対主義を押し付けた。しかし、カルヴァン主義の影響を受けていたネーデルラントにおいて八十年戦争が勃発、北部の諸州は後に独立を勝ち取り、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)を形成することとなる。一方、カトリックの影響を受けていたルクセンブルクを含む南部の諸州はスペインにとどまり、「スペイン領ネーデルラント(南ネーデルラント)」を形成した。 1598年、フェリペ2世は娘のイサベルとその婿アルブレヒト大公に南ネーデルラントを譲り、アルブレヒトは南ネーデルラント総督となった。アルブレヒトとイサベルの死後、南ネーデルラントは再びスペイン・ハプスブルク家の元へ戻り、南ネーデルラントでの国家形成のチャンスは消滅した。
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ハプスブルク時代
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1687年9月29日、ハプスブルク帝国に占領されたオシエクは西側支配に復帰する。1712年から1721年にかけ、新たなオーストリアの権力者は、トヴルジャ(Tvrđa、オシエクの旧市街)で知られる新しい要塞を建設した。この一風変わった都市と軍事施設の複合は、オシエクの心臓部となっている。中央にある三位一体広場は北側を軍司令部の建物でふさがれ、西方は主要警備隊の建物、東部は行政長官官舎(現在はスラヴォニア博物館)でふさがれていた。広場の中央には、1729年に建てられたペストの記念碑がたつ。標高の高い場所にあるゴルニ・グラド(Gornji Grad)は1692年、下町であるドニ・グラド(Donji Grad)は1698年につくられた。1786年まで、トヴルジャとゴルニ、ドニは別々の自治体のままであった。18世紀後期、ヴィロヴィティツァ県の中心としてオシエクはヴィロヴィティツァ市より優勢となった。 1809年、オシエクは帝国自由都市特権を授かった。19世紀初頭、オシエクはクロアチア最大の都市であった。その他の中央ヨーロッパ諸都市同様に発展し、ウィーンとブダペストからもたらされる文化、建築、社会経済の影響が浸透していった。19世紀、劇場、美術館(私蔵品を収蔵した美術館が1877年に開園)、フランシスコ会の印刷所などで文化が華開いた。経済と貿易の繁栄で力をつけた上流層は、宗教行事、公共行事、芸能やスポーツに親しんだ。西部のラトファルダ地区同様、ノヴィ・グラド地区が19世紀に建設された。
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