ハプスブルク郵便とは? わかりやすく解説

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ハプスブルク郵便

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/15 04:44 UTC 版)

帝国郵便」の記事における「ハプスブルク郵便」の解説

神聖ローマ帝国郵便事業者タシス家の関わりは、1443年ベルガモ飛脚のルッジェーロ・デ・タシスがハプスブルク家ローマ皇帝フリードリヒ3世宮廷召抱えられたことで始まったルッジェーロ1450年までにベルガモから帝都ウィーンまでの郵便組織しさらには1460年までにインスブルックからシュタイアーマルクまでを整備した1477年皇帝嫡子マクシミリアン1世マリー・ド・ブルゴーニュとの結婚によりブルゴーニュ公領ネーデルラントを手にした。そこで1480年頃にオーストリアウィーンからネーデルラントブリュッセルを結ぶ郵便路線整備された。これは神聖ローマ帝国東端西端を結ぶものであり、後に帝国郵便幹線へと発展した1489年ルッジェーロの甥であるヤネット・デ・タシスはインスブルック郵便局長となった1495年にヤネットは皇帝フリードリヒ3世の後を継いだローマ王マクシミリアン1世郵便協定結んで宮廷郵便長官に就き帝国全土郵便事業契約交わしたマクシミリアン1世父の時代郵便路線を自らの家領全体拡大した。この時点扱われ郵便物は主に公文書などであり民間利用出来なかった。マクシミリアン1世インスブルック政庁郵便事業干渉するばかりで経済的に報いることが少なく、ヤネットの弟のフランチェスコ・デ・タシス1世逃げるようにしてネーデルラントブリュッセルへと赴いたマクシミリアン1世皇子ブルゴーニュ公フィリップ4世1502年フランチェスコ1世・デ・タシスをブルゴーニュネーデルラント郵便主任(capitaine et maistre de nos postes)に任じたフィリップ4世カスティーリャ女王イサベル1世アラゴン王フェルナンド2世の娘フアナ結婚しており、1504年イサベル1世崩御すると、フアナ共同王としてカスティーリャ進出する機会得た1505年1月18日フィリップ4世フランチェスコ1世にとって旨味のある郵便事業契約結んだフィリップ4世リールにあるブルゴーニュ会計検査院通して毎年1万2000ルーブル委託金を支払いフランチェスコ1世帝国郵便建設郵便事業責任持った契約によると、最初郵便網はブリュッセル起点とする三叉路であった。すなわち皇帝マクシミリアンインスブルックフランス王宮廷パリ、そしてスペイン宮廷ブリュッセルを結ぶものだったフランチェスコ1世郵便網はこの三叉路幹線として瞬く間欧州中へ脈を張った。またフランチェスコ1世副業として商用郵便旅行業許された。すなわちこの郵便網は民間利用も可能であった国費投じられてはいたが運営はタシス家に一任されており、その収入フランチェスコ1世のものとなった1512年にタシス家は帝国貴族称号許され以降一族ドイツ貴族として社会的地位高めていった。 フィリップ4世息子であるブルゴーニュ公シャルル2世1516年カスティーリャ王アラゴン王兼ねてスペイン王カルロス1世として即位すると、フランチェスコ1世と甥のジョヴァンニ・バッティスタ対し郵便事業独占世襲認めたスペインイタリア南部ナポリ王国シチリア王国領有していたため、インスブルック行き幹線ローマ経由ナポリまで延伸された。「近代郵便マグナカルタといわれる契約では、タシス家の事業独占郵便局員対す裁判権認められており、郵便利用民間解放明記された。近代郵便システム骨格成り立った画期的な契約であり、西欧一つ郵便網で結ぶことにより近世経済発展大きく貢献した郵便網は貿易網としても機能し商人利益もたらした1517年フランチェスコ1世死去1519年スペイン王カルロス1世神聖ローマ皇帝カール5世としても即位すると、翌年にジョバンニ・バッティスタは帝国郵便長官(chief et maistre general de noz postes par tous noz royaumes, pays, et seigneuries)として認められた。民間利用者は増加し続け1530年代には定期便設置され加えて郵便料金一体化なされた1536年にジョバンニ・バッティスタの子フランス2世・ファン・タシス(フランチェスコ2世・デ・タシス)が皇帝カール5世によって郵便主任任じられ1541年ジョバンニ死去する郵便長官職を継いだフランス2世は皇帝が特に命を下さない限り、その職務代々子孫相続させる権利獲得した1543年フランス2世が跡取り残さず死去すると、弟のレオンハルト1世・ファン・タシスが皇帝カール5世によって後継者として指名された。カール5世1546年退位する郵便事業嫡子であるスペイン王フェリペ2世引き継ぐことになり、スペイン帝国郵便事業維持費負担することになったレオンハルト1世・ファン・タシスは1543年から1612年長期わたって郵便長官であったがタシス家の立場曖昧なものであり、帝国郵便長官であるのか、皇帝郵便長官であるのか、ハプスブルク家郵便長官であるのかはっきりしていなかった。多く諸侯スペイン仕えてブリュッセル本拠地を置くイタリア出身のタシス家が皇帝協定結んで帝国内で郵便営んでいると理解していた。つまりこの時点ではまだタシス家は皇帝個人契約している民間事業者に過ぎなかった。 1568年からネーデルラントオランダ独立戦争が始まると、タシス家の曖昧な立場露呈しだした。スペイン国家財政破綻によりタシス家に対す補助金途絶えネーデルラント中心とする郵便網は権益侵食された。1577年ブリュッセルにおけるタシス家の財産没収されたことで郵便機能不全陥った郵便網は引き裂かれ給料受け取れなくなった郵便局員ストライキ起こした。タシス家の郵便利用していた商人たちは独自の郵便網を構築し始め、これが独立まもないオランダ発展支えた

※この「ハプスブルク郵便」の解説は、「帝国郵便」の解説の一部です。
「ハプスブルク郵便」を含む「帝国郵便」の記事については、「帝国郵便」の概要を参照ください。

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