ハプスブルク郵便
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神聖ローマ帝国と郵便事業者タシス家の関わりは、1443年にベルガモ飛脚のルッジェーロ・デ・タシスがハプスブルク家のローマ皇帝フリードリヒ3世 の宮廷に召抱えられたことで始まった。ルッジェーロは1450年までにベルガモから帝都ウィーンまでの郵便を組織し、さらには1460年までにインスブルックからシュタイアーマルクまでを整備した。1477年に皇帝の嫡子マクシミリアン1世はマリー・ド・ブルゴーニュとの結婚によりブルゴーニュ公領ネーデルラントを手にした。そこで1480年頃にオーストリアのウィーンからネーデルラントのブリュッセルを結ぶ郵便路線が整備された。これは神聖ローマ帝国の東端と西端を結ぶものであり、後に帝国郵便の幹線へと発展した。 1489年、ルッジェーロの甥であるヤネット・デ・タシスはインスブルックの郵便局長となった。1495年にヤネットは皇帝フリードリヒ3世の後を継いだローマ王マクシミリアン1世と郵便協定を結んで宮廷の郵便長官に就き、帝国全土の郵便事業の契約を交わした。マクシミリアン1世は父の時代の郵便路線を自らの家領全体に拡大した。この時点で扱われた郵便物は主に公文書などであり民間利用は出来なかった。マクシミリアン1世のインスブルック政庁は郵便事業に干渉するばかりで経済的に報いることが少なく、ヤネットの弟のフランチェスコ・デ・タシス1世は逃げるようにしてネーデルラントのブリュッセルへと赴いた。 マクシミリアン1世の皇子ブルゴーニュ公フィリップ4世は1502年にフランチェスコ1世・デ・タシスをブルゴーニュとネーデルラントの郵便主任(capitaine et maistre de nos postes)に任じた。フィリップ4世はカスティーリャ女王イサベル1世とアラゴン王フェルナンド2世の娘フアナと結婚しており、1504年にイサベル1世が崩御すると、フアナの共同王としてカスティーリャに進出する機会を得た。1505年1月18日、フィリップ4世はフランチェスコ1世にとって旨味のある郵便事業契約を結んだ。フィリップ4世はリールにあるブルゴーニュ会計検査院を通して毎年1万2000ルーブルの委託金を支払い、フランチェスコ1世は帝国の郵便網建設と郵便事業に責任を持った。 契約によると、最初の郵便網はブリュッセルを起点とする三叉路であった。すなわち皇帝マクシミリアンのインスブルック、フランス王の宮廷パリ、そしてスペイン宮廷とブリュッセルを結ぶものだった。フランチェスコ1世の郵便網はこの三叉路を幹線として瞬く間に欧州中へ脈を張った。またフランチェスコ1世は副業として商用郵便と旅行業が許された。すなわちこの郵便網は民間利用も可能であった。国費が投じられてはいたが運営はタシス家に一任されており、その収入はフランチェスコ1世のものとなった。 1512年にタシス家は帝国貴族の称号を許され、以降一族はドイツ貴族として社会的地位を高めていった。 フィリップ4世の息子であるブルゴーニュ公シャルル2世は1516年にカスティーリャ王とアラゴン王を兼ねてスペイン王カルロス1世として即位すると、フランチェスコ1世と甥のジョヴァンニ・バッティスタに対し郵便事業の独占と世襲を認めた。スペインはイタリア南部のナポリ王国とシチリア王国も領有していたため、インスブルック行きの幹線はローマ経由でナポリまで延伸された。「近代郵便のマグナカルタ」といわれる当契約では、タシス家の事業独占と郵便局員に対する裁判権が認められており、郵便利用の民間解放も明記された。近代郵便システムの骨格が成り立った画期的な契約であり、西欧を一つの郵便網で結ぶことにより近世の経済発展へ大きく貢献した。郵便網は貿易網としても機能し、商人へ利益をもたらした。 1517年にフランチェスコ1世が死去。1519年にスペイン王カルロス1世が神聖ローマ皇帝カール5世としても即位すると、翌年にジョバンニ・バッティスタは帝国の郵便長官(chief et maistre general de noz postes par tous noz royaumes, pays, et seigneuries)として認められた。民間利用者は増加し続け、1530年代には定期便が設置され、加えて郵便料金の一体化がなされた。 1536年にジョバンニ・バッティスタの子、フランス2世・ファン・タシス(フランチェスコ2世・デ・タシス)が皇帝カール5世によって郵便主任に任じられ、1541年にジョバンニが死去すると郵便長官職を継いだ。フランス2世は皇帝が特に命を下さない限り、その職務を代々子孫に相続させる権利を獲得した。1543年にフランス2世が跡取りを残さずに死去すると、弟のレオンハルト1世・ファン・タシスが皇帝カール5世によって後継者として指名された。カール5世が1546年に退位すると郵便事業は嫡子であるスペイン王フェリペ2世が引き継ぐことになり、スペインが帝国の郵便事業の維持費を負担することになった。 レオンハルト1世・ファン・タシスは1543年から1612年の長期にわたって郵便長官であったがタシス家の立場は曖昧なものであり、帝国の郵便長官であるのか、皇帝の郵便長官であるのか、ハプスブルク家の郵便長官であるのかはっきりしていなかった。多くの諸侯はスペインに仕えてブリュッセルに本拠地を置くイタリア出身のタシス家が皇帝と協定を結んで帝国内で郵便を営んでいると理解していた。つまりこの時点ではまだタシス家は皇帝個人と契約している民間事業者に過ぎなかった。 1568年からネーデルラントでオランダ独立戦争が始まると、タシス家の曖昧な立場が露呈しだした。スペインの国家財政の破綻によりタシス家に対する補助金は途絶え、ネーデルラントを中心とする郵便網は権益を侵食された。1577年にブリュッセルにおけるタシス家の財産が没収されたことで郵便は機能不全に陥った。郵便網は引き裂かれ、給料を受け取れなくなった郵便局員はストライキを起こした。タシス家の郵便を利用していた商人たちは独自の郵便網を構築し始め、これが独立まもないオランダの発展を支えた。
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