ハプスブルク支配
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 06:47 UTC 版)
17世紀、バナトの一部がオーストリアのハプスブルク君主国の一部となった。1716年に墺土戦争が勃発するとプリンツ・オイゲンがバナトの残りをトルコから奪い取った。1718年のパッサロヴィッツ条約後、テメシュヴァールのバナトの称号を得て、1751年まで軍事境界線下(軍政国境地帯)のハプスブルク君主国分離県のままにおかれた(軍政国境地帯に住む人々は土地を耕す農民であり、有事の際にはトルコと戦ういわば屯田兵であった)。 1751年、女帝マリア・テレジアが軍政から民政へ移行した。テメシュヴァールのバナト県は1778年に廃止された。バナト南部地域は、1871年に境界線が廃止されるまで軍政国境地帯(バナト・クライナ)に含まれたままだった。 トルコ支配下では、バナトの一部は戦禍の年月のため人口密度が低く、さらに多くの地域はほとんど無人の湿地、荒野や森林であった。メルシー伯クラウディウス(1666年-1734年)は1720年にテメシュヴァールのバナト知事を任命され、バナトの再生のため数あまたの法令を採用した。ドナウ川とティサ川近くの湿地は一掃され、道路と運河が多額の出費で建設され、ドイツ人職人とその他移住者らが地区の植民、農業、貿易促進に引きつけられてやってきた。 女帝マリア・テレジアもバナトに多大な関心を持っていた。彼女は多くのドイツ人小作農らを植民させ、国内の鉱業生産開拓を後押しし、メルシー伯によって導入された法令を発展させた。シュヴァーベン、アルザス、バイエルン、オーストリアからドイツ人移住者がやってきた。東部バナトの移住者の多くはほとんどドイツ人であった。バナトに住む民族的ドイツ人はドナウ・シュヴァーベン人として知られる。ドナウ・シュヴァーベン人のうちの一部には、フランス語を母語とする者または独語仏語の話者が混在して暮らすロレーヌ地方出身の者がおり、数世代に渡ってフランス語そして特別な民族アイデンティティーを維持し続けた。後にバナト・フランス人フランセーズ・デュ・バナト(Français du Banat)として反乱を起こした。ハンガリー人は長い植民時代の後、バナトに根を下ろすことを許されなかった。 1779年、バナト地域はハプスブルク領ハンガリー王国へ併合され、トロンタール、テメス、クラッソーの3つの県が創設された。1848年、バナト西部はハプスブルク君主国に含まれるセルビアの州、セルビア・ヴォイヴォディナ(Serbian Vojvodina)の一部となった。1848年革命の間、バナトはセルビア・ヴォイヴォディナのセルビア軍とハンガリー王国軍とにそれぞれ占領された。その日付は、バナト人に対するセルビア国粋主義の拡大の始まりとなった。 1848年-1849年革命の後、スレムとバチュカとともにバナトはオーストリア=ハンガリー帝国から分離されたセルビアおよびタミシュ・バナト・ヴォイヴォディナ(英語版)の直轄王領として知られるようになった。しかし1860年、この制度は廃止され、再度帝国に併合された。 1871年の後、かつての軍事境界線があったバナト南部は民政へ入り、他のバナトの県と併合された。クラッソーとショレーニは1881年にハンガリー王国の行政県クラッソー=ショレーニ(英語版)と統合された。 1918年10月、ティミショアラでバナト共和国(英語版)の建国が宣言され、ハンガリー政府は独立を承認した。しかし、短命に終わった。ちょうど2週間後、セルビア王国軍がバナト共和国へ侵攻、共和国は終わりを告げた。 1918年と1919年、バナトの大部分がルーマニア王国の一部となった(クラッソー=ショレーニ全土、テメシュの2/3、そしてトロンタールのわずかな部分)。南西部(トロンタールの大半、そしてテメシュの1/3)は新たにできたセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(のちのユーゴスラビア王国)の一部となった。セゲド近郊のわずかな地域は新独立国家ハンガリーに含まれた。これらの国境は1919年のヴェルサイユ条約と1920年のトリアノン条約で確定された。 バナトの領土は現在、ルーマニア(ティミシュ県、カラシュ=セヴェリン県、アラド県、メヘディンチ県)、セルビア(ヴォイヴォディナ自治州とベオグラード)、ハンガリー(チョングラード県)とに分けられている。
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