ハプスブルク家の相続問題とは? わかりやすく解説

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ハプスブルク家の相続問題

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 17:00 UTC 版)

マリア・テレジア」の記事における「ハプスブルク家の相続問題」の解説

マリア・テレジア結婚についてオイゲン公バイエルンとの縁組勧め、また在ベルリンオーストリア大使ゼッケンドルフカール6世侍従長バルテンシュタインらはプロイセン王太子フリードリヒ(後のフリードリヒ2世大王))との縁組推薦した。なお、オイゲン公フリードリヒ推薦したとの説もある。 しかし、ロートリンゲンロレーヌ)家は第二次ウィーン包囲においてオスマン帝国敗走せしめた英雄カール5世シャルル5世)の末裔であり、ハプスブルク家にとっても深い縁があったことから、カール5世の孫との縁組決定されるロートリンゲンロレーヌ)公レオポルトの3人の息子1723年からウィーン宮廷へ留学し長男クレメンス婚約者候補となったが、同年病没する。そこで次男フランツ・シュテファン愛称:フランツル)が婚約者候補となり、またカール6世フランツのことを大変気に入り、好待遇を受けるようになったマリア・テレジア6歳時に15歳フランツ出会い憧憬はやがて愛情変わりその様子は「夜は彼のことを夢見、昼は女官たち彼のことを話している」とイギリス大使記している。 1736年2月12日アウグスティーナ教会2人婚礼挙げた。この時、マリア・テレジアドレスの裾を持ったのは、慣例反して教育係であったシャルロッテ・フックス伯爵夫人フルネームはカロリーネ・フォン・フックス=モラールト)であった当時王族としては奇蹟にも近い恋愛結婚であった結婚際しフランツは、フランス王ルイ15世理解を得るため、領地ロートリンゲンロレーヌ公国フランスへ割譲しなければならず、代わりにトスカーナ大公地位得たカール6世は、オイゲン公の「王女には紙切れよりも強力な軍隊財源を残すべし」という進言尻目に、『プラグマーティシェ・ザンクチオン』(国事詔書、Pragmatische Sanktion)を出して国内および各国に、彼女のオーストリア・ボヘミア(ベーメン)・モラヴィアメーレン)・ハンガリーなど、ハプスブルク家世襲領の相続認めさせた。また、女子皇帝になることはできなかったため、帝位には娘婿フランツ・シュテファンが就くこととした。しかしカール6世それでもなお男児(孫)の誕生夢見ており、彼女に政治家としての教育は施さなかった。このためマリア・テレジア幼少期公式記録は、ほとんど残されていないこのような政治的事情一方マリア・テレジアフランツ・シュテファンの仲はすこぶる円満であるが、結婚4年のうちに連続して3人の大公女が誕生したため、反オーストリア諸国煽動もありフランツ批判を受ける。1737年フランツトスカーナ大公となり、1739年1月夫妻トスカーナ訪問するフランツ同地財政立て直し以後オーストリア財政基盤となった

※この「ハプスブルク家の相続問題」の解説は、「マリア・テレジア」の解説の一部です。
「ハプスブルク家の相続問題」を含む「マリア・テレジア」の記事については、「マリア・テレジア」の概要を参照ください。

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