ハプスブルク家の分裂と条約の内容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/12 05:00 UTC 版)
「ノイベルク条約」の記事における「ハプスブルク家の分裂と条約の内容」の解説
ルドルフ4世は1364年に家法を定め、弟のアルブレヒト3世とレオポルト3世によるハプスブルク領の共同統治を定めていたが、翌1365年にルドルフ4世が没すると2人の弟はすぐに仲たがいを始めた。結局1379年、シュタイアーマルクのノイベルク修道院で分割統治を定める条約が結ばれた。 アルブレヒト3世及びその子孫(アルブレヒト系、1457年に断絶)は、旧来のオーストリア大公国を保持する。すなわち現在のオーバーエスターライヒ・ニーダーエスターライヒにあたる地域であり、トラウンガウとザルツカンマーグートを含む。 レオポルト3世及びその子孫(レオポルト系)は、シュタイアーマルク公国(ピッテン、ウィーナー・ノイシュタットを含む)、ケルンテン公国、クライン公国(1374年にヴェンデ伯領とイストリア伯領を統合していた)、チロル、フリウーリ(オーストリア沿岸州)における排他的君主となる。 領土を分割した双方ともに、オーストリア(大)公の称号を保持する。
※この「ハプスブルク家の分裂と条約の内容」の解説は、「ノイベルク条約」の解説の一部です。
「ハプスブルク家の分裂と条約の内容」を含む「ノイベルク条約」の記事については、「ノイベルク条約」の概要を参照ください。
- ハプスブルク家の分裂と条約の内容のページへのリンク