ハプスブルク家の支配
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/08 05:15 UTC 版)
1723年にフィウメに自由港が建設され、18世紀から19世紀までのフィウメは、1870年にオーストリア=ハンガリー帝国のハンガリー王国へ移るまで、ハプスブルク領オーストリア、クロアチア、ハンガリーと宗主国が移り変わった。クロアチアはハンガリー王国を構成する自治地域であったが、その中にあってフィウメはクロアチアからも独立した自治都市であった。ハンガリー政府から任命された総督が直接フィウメを治め、フィウメはハンガリー王国唯一の国際港となった。オーストリアの国際港トリエステ、ハンガリーの海港フィウメとの間には競争があった。19世紀初頭、フィウメの経済的・文化的指導者は、貿易業者アンドリヤ・リュデヴィト・アダミッチであった。フィウメには規模の大きな海軍基地があった。19世紀半ばにはそこにオーストリア=ハンガリーの海軍兵学校が置かれ、士官の育成が行われた。 1872年から1896年までフィウメ市長を務めたジョヴァンニ・デ・キオッタは、最も権威ある地方の政治指導者だった。彼の指揮のもと、都市拡張の印象的な過程が始まり、主要港としての開発が始まり、オーストリア=ハンガリー鉄道網とフィウメの接続、国際貿易の拡張が行われた。ハンガリーの王立海運会社アドリア、リェツィナ谷にある製紙工場といった現代産業及び商業会社は、フィウメのトレードマークとなった。 1866年、スタビリメント・テクニコ・フィウマーノ(オーストリア=ハンガリー海軍にエンジンを供給していた会社)のマネージャー、ロバート・ホワイトヘッドは、世界初の魚雷実験を行った。1880年にわずか21,000人だった人口は、1910年には50,000人となった。多くの主要な公共建築はこの時代に建てられた。アラヨス・ハウスマンの建てた総督宮殿もその1つである。のちのニューヨーク市長フィオレーロ・ラ・グアルディアは20世紀初頭にアメリカ領事館員としてフィウメで暮らし、地元のサッカークラブでプレーしていた。
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