ハプスブルク家の支配と騒乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 01:44 UTC 版)
「東ハンガリー王国」の記事における「ハプスブルク家の支配と騒乱」の解説
摂政のフラーテルとイザベラの関係は極めて険悪であった。フラーテルはオスマン帝国を捨ててフェルディナーンド1世と同盟し、1549年にイザベラににニールバートア条約を結ばせた。これはトランシルヴァニアをフェルディナーンド1世に譲り渡す内容であり、イザベラは直ちにオスマン帝国に通報、イザベラ軍とフラーテル・ハプスブルク家軍の内戦が勃発した。フラーテルの軍は1550年、1551年の二度にわたりジュラフェヘールヴァールを包囲した。 ハプスブルク家はジョヴァンニ・バティスタ・カスタルド率いる軍勢をティサ川地方に送り込んだ。1551年、カスタルドは裏でオスマン帝国との連絡をとっていたフラーテルを裏切り者とみなし暗殺した。ヤーノシュ2世とイザベラはポーランドへ亡命した。 この混乱の中、1552年にオスマン帝国のスレイマン1世がハンガリーに再侵攻し、ヴェスプレーム、ドレーゲイ、ソルノク、リッパ、ティミショアラ、カランセベシュを占領し、旧ハンガリー王国中部の広大な領域を併合した。唯一エゲル城がイシュトヴァーン・ドボー指揮下で持ちこたえた(エゲル包囲戦)。1553年、フェルディナーンド1世はカスタルドの軍を撤退させた。1554年、スレイマン1世は再び遠征し、シャルゴー、フィラコヴォを占領した。
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