ハプスブルク帝国時代
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「ダルマチア王国」の記事における「ハプスブルク帝国時代」の解説
全ダルマチアの多くの労働者と市民は、1797年のヴェネツィア共和国の滅亡間際に反乱を起こした。 ダルマチアとクロアチア王国、スラヴォニア王国の統一を求める強力な運動(クロアチア国家復興)が起こり、フランシスコ会と他の多くの聖職者も参加した。例えばゴルンジ・カリン村では集会を開いて統一を要求した。運動にはスプリット大司教レリエ・チピコ、マカルスカ司教、そして正教会の聖職者らも加わり、1797年6月にはウィーンを訪れて大公に統一の承認を求める計画を立てて代表団を結成したが、1797年10月18日にフランスとハプスブルク帝国の間で調印されたカンポ・フォルミオ条約によってダルマチアはオーストリアの支配下に入ったため、代わりにクロアチアのバンに連絡することにした。この条約によって旧ヴェネツィア領は2つの州に分割され、ハプスブルク帝国はイストリアとダルマチアを獲得した。約4,000人の兵士を擁するオーストリア軍は、新たに獲得した領土を主張する軍事作戦をクロアチアの将軍マティアス・ルカビナ・フォン・ボイノグラードの指揮下で行った。ダルマチア、クロアチア、スラヴォニアの統一を支持するルカビナはダルマチアの軍政官に任命され、民衆と聖職者はクロアチア人主導の軍隊の到着を見て喜んでいた。 しかし、ダルマチアは新たな領土として扱われたために自治政府が置かれず、オーストリア政府の直轄とされた。1798年、ダルマチア総督を筆頭とする王立政府(クロアチア語: Carska i kraljevska Vlada ;イタリア語: Cesareo Regio Governo )がザダルで設立された。総督と官僚はダルマチア王(オーストリア大公)によって任命され、ヴェネツィアの「イストリア・ダルマチア及びアルバニア宮廷委員会」(クロアチア語: Carsko i kraljevsko dvorsko povjerenstvo za Istru, Dalmaciju i Albaniju ;イタリア語: Ces. Reg. commissione aulica per l'Istria, Dalmazia ed Albania)の、1802年以後は「ダルマチア及びコトル湾ウィーン王室区(クロアチア語: Sekcija za Dalmaciju i Boku kotorsku Dvorske kancelarije )の管轄下に置かれた。また、ダルマチアは行政裁判所地区に分割され、司法官と裁判官が治めていた。行政裁判所はツレス、クルク、ラブ、パグ、ザダル、ニン、ノヴィグラード(ザダル郡のもの)、 スクラディン、シベニク、クニン、シニ 、トロギル、スプリット、 クリス 、オミシュ、ブラチ、フヴァル、コルチュラ、イモツキ、マカルスカ、 ポルイカ、メトコヴィチに置かれていた。1802年、宮廷はダルマチアとクロアチア王国及びスラヴォニア王国の統一要請を公式に却下した。フランス領になるまで、オーストリア政府は既存の統治機構をあまり変えず、教育と司法の限られた改革しか実施しなかった。特筆すべきことは1803年、ザダルにギムナジウムが開設されたこと程度である。アウステルリッツでオーストリアがナポレオンに敗北して1805年にプレスブルクの和約が結ばれると、その規定に従ってダルマチアはフランス帝国に引き渡され、フランスの従属国であるイタリア王国へと併合された。こうして、オーストリアによるダルマチア統治は一度終わった。
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ハプスブルク帝国時代
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「農業党 (チェコスロバキア)」の記事における「ハプスブルク帝国時代」の解説
1848年の隷農禁止令以降、ボヘミア地域の農村社会でも農民の声を政治に反映させようとする動きが活発化していった。当初はチェコのリベラル派政党である国民党(老チェコ党)や国民自由党(青年チェコ党)を通じて、利益の実現を図ろうとしてきたが、都市市民層を支持基盤とする両党の関心が、1870年代の農業不況にもかかわらず、国制問題に集中し、農業問題に消極的であったことに対する不満が高まっていった。農民の発言力強化を目指して、1880年代から、中央ボヘミアのムラダー・ボレスラフにおける農民党結成の呼びかけを契機に、各地で農民結社の設立が相次いだ。1897年に結成されたチェコ営農家連合が、1899年1月6日の総会で農業党の設立を決定し、1903年に綱領を採択した。1905年にモラビアおよびシレジアにおけるチェコ農業党(Česká strana agrární pro Moravu a Slezsko)と合同し、チェコスラブ農業党と党名を変更した。1909年にアントニーン・シュヴェフラが党首に就任した。1907年の帝国議会選挙では23議席を獲得し、チェコ系政党の中で第一党となり、また24677の地方組織や9万人超の党員を擁する大衆政党としての地位を確立した。1911年、男子普通選挙法施行後初の帝国議会選挙では、約26万票を獲得し、社会民主党に次ぐ第二党となった。
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ハプスブルク帝国時代
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「スロバキア人民党」の記事における「ハプスブルク帝国時代」の解説
1905年12月14日、ハプスブルク帝国内において、スロバキア民族の利益を代表する唯一の民族政党であったスロバキア国民党から、カトリック系がジリナで離脱して人民党の創設を宣言し、1906年3月18日に正式に発足した。ただ1913年までスロバキア国民党の一派としてハンガリー議会選挙に臨み、1906年選挙では6議席を獲得した。チェコ人との協力関係を進める国民党主流派の姿勢に反発し、1913年7月29日、分党し、正式に結党した。第一次世界大戦中、ハプスブルク帝国に反対するような表立った活動を控えていたが、1918年にスロバキア国民会議の結成に加わった。
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